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  映像研究

敗北、ふたつの綻び

・朝から職場で春の業務の準備。タイムラインでは「五輪延期」がリアルタイムで進行する不思議。昨日のトレンドは「首都封鎖」だった。東京という都市がどのように変移してゆくのか。まるで何もわからない。わからないが何かを発話したい。たとえば職場で床屋談義のような会話を「床屋だな」と思いながらする日々。繰り返すことで出来事が空気になる。

 

・夕方から会議。コロナ関係なく年度末の反省会的な会議だが、どのような事柄であれ、出来る限りの力で言葉を発することは、その言葉を考えることも含めて、その行為から得ることが必ずあると確認した。美しくもなんともない敗北。それは業務の一環でTwitterをすること。しかしそのことを以前のように屈辱的だと感じないのは、自分の考えのある部分が変化したことに因るのだろう。ポスト・フォーディズム的な労働の全面化に対する抵抗はいかにあり得るかということを問題と考えていたが、その問題を展開するためには、まずは言葉を届けなくてはいけない。労働の対価として賃金を得るが、賃金を得るだけでなく可能な限り多くの人に出会い、その人へ向けて言葉を投げたい。あるいは対話や会話をしたい。それが許される時間も空間も身体の健康も無限では無い。そのことを自分の感覚として理解するのに(つまり「腑に落ちる」のに)10年かかった。テクノロジーあるいはネットワークという「存在」についても、緩やかに考えが変化していくのだろう。業務はあくまでも業務だがこうして新たな経験を授ける。

 

・思えば2月後半にアイフォーンを購入してみたことは、何かの予感と共にだった。スマートフォン~携帯電話、からのアイフォーン。デバイスもまた知覚と思考に変化をもたらす。

 

・ところで2011年春のことを思い出す。震災後の対応を話し合う業務の会議の最中に震度4程度の揺れが起こり「と言うように今後も予断を許さない状況です」と言われたならば思わず笑ってしまう。不謹慎とかではないあの笑いは何だったか。震災と原発事故という出来事それ自体と、日常が崩れていくこと、そのふたつの綻びを感じていた。いまコロナにまつわる出来事の変化の最中に感じるのは、その時に感じた「日常が崩れる」感覚だろうか。床屋のように友人が発した「でもこれ、地球全部だから」という言葉を聞いてから、偏西風のようにウィルスが球体を包み込むようなイメージを浮かべている。大地の問題から大気の問題へ。あるいは身体の問題へ。「アジール」は無い。想像力だけがその代わりになるだろうか。