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  映像研究

夏の逡巡

・201908051132。月曜日の午前。今週は基本的には業務のない自分の研究(あるいは勉強)のための一週間になる。昨日見た『ひかりの歌』の場面を反芻しながら、図書館に来たもののなかなか作業に入れず『暮らしの手帖』を読みながら夏のレシピを考えたりしている。まだそういう隙間の時間が許されている感じがある。同時に、ニュースを見れば、誰も、何も、許されていないようにも思えるのだけれども。「戦争に反対する唯一の手段は」。

 

facebookをたまに見てみたならば、数年会えていない友人が作っている物を見て、あっと思う。それは自分も貰ったことのある物で、今もリビングの棚に置いてある。時々手に取ってみては、彼女や彼女の友人たちは元気でいるかなと、そう意識するほどには意識しないような仕方で思い出している。家の中には他にも絵や彫刻やそういう物がいくつかあり、それらは自分や家族以外の人にとっては「インテリア」であり「オブジェ」かもしれないが、自分にとっては「記録」であり、それらを作った人の分身でもある。分身に囲まれて生きている。

 

・どういう流れに巻き込まれたのか自分から抜け出したのか逃げ出したのか飛び込んだのか、そういう分身のような何かを作ることとは、根本的に違う生き方をしているのだと、この数年強く感じる。言葉は一瞬で消えるし、文字は全然自分のものにならない。分身を生み出す術のようなことを体得していく友人知人たちを横目に見たりあえて見なかったりしているうちに、自分はどんどん時間を遡り「わかっていたと思っていたこと」すら「わからないこと」と思えるような方向に、しかも超低速で進んでいるような感じがある。たとえば受験生でもないのに受験生のような勉強をしていることも不思議だ。

 

・そういう状況をいつよりも理解して、しかしなお進むことを選択するのは、その方が面白いと思えるからだろうか。経験上よく言うところの「一つのことしかできない」のも理解しながら、それでも写真を撮ることも自分にとっては必要だと思う。中断。