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  映像研究

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・201907240958。二日休み少し回復のち昨日は業務そして今日は研究のための貴重な一日。芸能事務所の問題が気になってしまうのはtwitterを見るからではあるのだが、それが労働の問題であり組織の問題であることから、自分がこの一年くらい断続的に考えている問題とも通ずるからだ。映像や文字で伝えられる情報を見て聞いて、おそらく「自分ならば」と考えている人は多いのだろう。あるいは「自分はどのポジションなのか」と考える。「自分ならばどんな言葉で話すのか」とも思う。組織に所属することは、その組織に所属するすべての人の気持ちを想像することである、と言えばそれはあまりにも理想的すぎるのか。しかし「組織」などと言わずとも、本来はその態度が最低限の倫理である。その倫理を保ち続けることは果てしなく難しい。

 

・全然そういう文脈じゃなく手に取ってみて(授業でワークショップ的な流れを作る上で参考にならないかと手に取った)、組織や集団における「(権)力」と「倫理」について書かれてもいたのは、山縣太一という人と大谷能生という人の『身体と言葉』という本だった。チェルフィッチュは『三月の五日間』以降何度か見に行き、そういえばライン京急も見たことがあった(それはちょうど10年前の夏だった)。この本でには、創造を悪しき意味での労働から救うための実践が具体的に(メソッドとして)示されている。そのことに驚き、そして山縣太一という人が自分に近い年齢であることから、ここでもまた「自分ならば」と考えた。自分が「業務として」あるいは「労働として」行っている行為の中にも、何らかの「メソッド」を見出し、そこに倫理を宿すことができるのか、あるいは「そうすべきなのか?」という問い。

 

・この本やtwitterでの言葉を読めば岡田利規という人と山縣太一という人の間には何らかの交渉や闘争があったのだろうことが想像できるし、どこかに詳細な情報があるのかもしれないが、ともかく、両者の創造に対する微妙に思える/しかし決定的な差異を作品やプロセスから想像したならば、そのことからもまた「自分ならば」「自分ならばどんな言葉で話すのか」と考えたりもする。それは舞台上のテキストだけではなく、伝わってしまう「メッセージ」という意味でも。

 

・とここまで書いてみて、しかし『身体と言葉』からは別のことも考え始めることができる。手塚夏子という人のことを自分はまったく知らずにいて、しかし『身体と言葉』という本で書かれている稽古やワークショップに興味を持った。たとえば「観察」ということ。その観察は自分の身体に向かっているということができるのだろうが、その観察は観察行為自体も含んだ身体と環境のつながりに延びていく、というような説明を読みながら、自分は(また)清野賀子の写真とその撮影行為について考え始めた。清野賀子の写真における、一般的には「風景と呼ばれるであろう対象」や「ポートレートと呼ばれるであろう写真」に潜んでいる思考/実践も、こうした意味での「観察」と通づるところがあるのではないか。写真の場合は機械であるところのカメラが、その思考/実践をどのように規定し、またどのように増幅するのか、という問いもある。中断。

 

・201907241530。午後からカイロプラクティックに行き今。調布の珈琲店にて業務のグログを書き(ポスト・フォーディズム的労働)、リサーチをしながら、日記の続きを書く。映画『新聞記者』はほぼ満席で間に合わなかった。『天気の子』を見てみようかとも思うが、賑わった劇場のことを想像すると躊躇してしまう。それで今。夜は友人たちが集まるらしくそうなったらふらっと吉祥寺あたりに出てみようかと想像すると考えうる限り最高の休日だと思う。そういう一日があっても良いのではないか。フランス語の教科書を開くために中断。

 

身体(ことば)と言葉(からだ)?舞台に立つために 山縣太一の「演劇」メソッド

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