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  映像研究

「難しい」と

 
・201810091221。調布の猿田彦珈琲に来た。というような日々のことを書くのはいつ以来かと考えてみて、以前に書いてから20日近く経っていたことに気がついた。おそろしい。キーボードを叩く手もそれを映し出すテキストエディットのウィンドウもぎこちない。中央図書館で9時から20時までただひたすらに夏休みの宿題をするような日々が完全に遠ざかってしまった。思い返すとあの夏の終わりの時間は宝のようであったと思う。そしてそれまで後回しにしていた職場の色々な仕事を終えて今。ようやくまた少しずつ再開できる。


・研究とはなんだろう。自分がそれをしているのかどうかいつでも怪しいが、しかし「研究」という事の社会的な(?)位置については考える。雑誌『現代思想』の大学特集では芸術と大学、芸術と教育、芸術と研究についての論考が収録されていて、色々と考えさせられる。とともに友人と話していて話題に挙がった知人の研究者のことを考えて、自分と同じぐらいの年齢で「業績」というものを着実に積み上げている人に対して、尊敬や畏れのような気持ちを持つ。作品を発表するということを色々なところで色々な形で継続している人がいる。普段ほとんど考えない「努力する」という語が示す態度について考えさせられた初秋だった。


・自分の生活はあまりにも恵まれている。思えば基本的にいつでも自分は恵まれていた。「恵まれているんです」と言うことさえも、自分の表現の基礎になっている。一時的に「ああ大変だな」と思いながら何かをしていると、意識がぼんやりしてきて、気がつくと「恵まれているんです」という状況の中にいる。ということを繰り返してきた。というこれもまた現在地からの視野でしかない。というこの状況は、きっと自分の身近な人、まるで人間を超えてしまっているように思える人の力がはたらいている。そういう人のおかげでそのように「恵まれている」と思える。スピリチュアル。でも本当にもっと全然ぎりぎりのところで何事かを残そうとしている人を見てしまって、自分は何ができるのだろう、と考えてしまったときに、この問題に対しては適切な問いを立てることからずっと逃げ続けているという自覚がある。


・一方でそれぞれの場所で様々に実践を続ける友人たちと会うことも楽しい。10時間お酒を飲んだ休日があった。6日の土曜日は10月で閉店するらしい多摩川の「たぬきや」へ。昼から夜まで飲み、そのまま稲田堤の飲食店へ流れて話し続けた。あらゆる話すことは「報告」である。報告を聞き、報告をする。「発表」と「報告」は何が違うか。違わないのか。報告はある事象に対する要約と意見であるだろう。それを繰り返すことは言語による表現のトレーニングになる、かもしれない。発表は表現も報告も含む広い概念かもしれない。ならばまずは日々人と会って話すことを報告にすることは重要である、かもしれない。


・思うことは「難しい」ということだった。きっと多くの人が「自分のありあまる力を適切に発揮するにはどうしたらよいのか」と考えている。あるいは真剣にそのようなことを考えたいと思っているのだろう。自己啓発もスピリチュアルもその思考を付け狙う。色々な工夫をするだろう。