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  映像研究

夏の課題

・3日で6日間の集中授業が終了してばたばたと片付けて軽く打ち上げて4日。集中授業からいくつかの問題を思い返す。自主的な作品づくりをサポートする授業であるはずなのだが、どうしても急かすように、追い立てるように、表現を促してしまうことは、当面の予定を考えれば仕方のないことではあると思うのだけれども、しかし冷静に考えて残酷なことをしているなと、また本当の意味で合理的でないことをしているのではないか?と考えた。学生が「発言を待つ」ことの重要性を指摘したのは、自分の問題でもあり、いつでも複雑であり得る可能性に開いていなければいけないと思う。と同時に、おそらくはこれまでの生活で考えているであろうこととはまったく別の何らかの事柄を投げてみることの可能性もいつでも見据えておきたい。

 

・4日は休日だったから家族と出かける。東京都写真美術館で『ひかりの歌』を鑑賞。ずっと見る機会を探していたがこのタイミングで見ることができて良かった。演じることはどこまでも不思議で不可解なことだと感じた。そしてそれをカメラで記録することもまた異様で面白いことだと感じた。つまりそれが映画ということであるのだけれども、その映画を見たことが記憶として残るということも凄い。いま自分の記憶の中にいる、としか言いようのない、あの映画に存在していた人たちは一体何だったのだろう。動揺して混乱している。見ている時に何かの触発をされるということもあるが、それよりもなお、いまあの映画を思い返すことの方が、自分にとっては特別な出来事になっている。

 

・これらは杉田協士さんのアフタートークまで聴いて考えたことであって、撮影される場所で俳優が芝居をする中で、そこで「本当に」何かが起こっているかどうかという問題について聴けたのはとても面白かった。と同時にその「起こっていること」を撮影するというのはどういうことなのだろうか(どういうことだと考えているのだろうか)ということについては自分で考えてみようと思う。自分は映画の動くイメージが何なのか、いつでも掴めずにいる。前にそのことを考えたのは春に飯岡幸子『ヒノサト』を見たときであって、その飯岡さんはこの『ひかりの歌』を撮影しているのだから、自分にとっては何かそこにヒントがあると考えられるのだった。見る自分が精神的なことを考えるにせよ、それが撮影であるからには、具体的な技術があるはずだし、つねに不確定であるにせよ、そこには判断(の基準)があるはずなのだ。それは鑑賞した体験を元にあてずっぽうのように言葉を並べることでは消えてしまう問題だと思える。これまでの自分の思考の仕方とは別の方法で考えてみる必要がある。そしてその研究と清野賀子の写真の問題はいつかどこかで繋がるように予感している。

 

・また杉田さんがnoteに書かれていた高校での授業の様子が面白く、文章の佇まいもあるのだろうが、その授業の時間の豊かさを想像して、ある意味では同じような設定で授業をしていた自分としては打たれてしまった。自分にはこのような授業のデザインはできないだろう。あるいはこのような態勢を持つことも難しいだろうと考えてしまうことに悔しさを感じつつも、そこには自分が学ぶべきことがある。その態勢の柔軟さや強さもまた「撮影される場」に何かのヒントがあるように思う。中断。

 


映画『ひかりの歌』劇場用予告編