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  映像研究

歪んだ太陽について

 
・201811051620。自宅にて。週末の業務を終えて今日は家で作業をする。ぎっくり的な腰が気になり検索をしてみるが、ひとまず今日は安静にしつつ作業をしようと思う。それでコーヒーを飲んでアイスを食べて一休み。業務の最低限の連絡をした後、書いている論文を推敲する作業。


・3日土曜日は文化の日。山部の東京在住の皆さんで集合して野川公園で焚き火。火を焚くことは良い。久しぶりに集合写真を撮った。10年来の友人たちにはそれぞれの生活のリズムがあるが、それが一瞬交差するような時間はとても貴重だ。子供を連れてくる友人もいる。いつか集まった過去を懐かしむのでもなく、現在を共有する。その場所の中心には焚き火がある。


・清野賀子についての自由研究を進めたい。2006年のインタビューが掲載されているSWITCHを入手した。休業の後の再開の仕事だったようだ。コムデギャルソンを着た人の写真を撮り、その写真とともにインタビューが掲載されている。そのインタビューの中で「敢えて言葉にするなら、写真のどういうところが好きですか」との質問には、こう答えている。

誰も、どんなものも連れて行ってくれないところまで、すごい速さで連れて行ってくれるところーこれは、きっと私は写真を一生続けるであろう、その理由でもあります。普通の意味での写真ということで言えば、今の時点でもあるレベルまではクリアしていると思う。ただ、自分が見たままを写真にするという意味では、まだまだできることもしたいこともするべきこともたくさんある。物が、人が、在るがままに立ち上がる瞬間がある。もう少し詩的に言ってしまえば、夜が夜より夜らしく、風が風より風らしく写るということがある。そんな瞬間が好きなんです。


・「自分が見たままを写真にする」「物が、人が、在るがままに立ち上がる瞬間」とはなんだろう。それはどのようなことだろうか。そして「どんなものも連れて行ってくれないところ」とは?その「場所」「状態」と「通路」という概念は、どう関係付けられるのか。言葉ではなく、生きることそのものにおいて。謎は、作者がもう存在していないことで膨らむのだけれども、その謎は、写真について考えられることの可能性の方に開いている。『THE SIGN OF LIFE』も何度か見ていると、少しずつその風景の前に立つことを想像できるように思えてくるし、『至るところで 心を集めよ 立っていよ』もバナナの木が気になってくる。


・そしてUAのニュージック・ビデオ『歪んだ太陽』を見る。プロモーションのようなこととはほとんど関係がないような映像。声を出す人を、歌を歌う人を、正面から写した映像。清野賀子という人がカメラという道具/装置をなんだと思っていたのか?という問いを展開する上で、この映像はヒントになるのではないか。そんなことを考えつつぼんやり見る。中断。