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  映像研究

写真について考えるための準備

・201901160917。業務の合間のふと空いた時間にメモしておく。年末に新しく買ったmacbook指紋認証がここしばらく反応せず、不具合が起きそうだと思っていたが早速壊れたのだろうか、と思ったが、自分の指を見てみると乾燥して表面が全然違う感じになっていたのだった。自分であることを証明するためにはどうしたらよいのか。あるいは気がつけば「私はロボットではありません」という認証をクリアする必要が多くある。「私はロボットではありません」。

 

・清野賀子の写真についてだった。断片的に考えて、断片的に考えた事柄をメモしておく。正月に近所の古本市で写真美術館で去年?やっていたアジェ展の図録を購入した。初めて見た写真はポートレイト。特に制服の高校生を写した一枚が新鮮だった。『sign of life』や『至るところで 心を集めよ 立っていよ』の印象から「風景を写していた」と言ってしまいそうになるが、むしろ2冊の写真集以外の作品においては人を写している写真が多い。そしてその「人」と「風景」には通じる印象がある。もちろん清野賀子の写真において、ということで、それは撮る人自身がその両者を通じるものとして見ていた、ということなのだろうか。もちろん「人」「風景」というのも便宜的な区分に過ぎない。しかしそう区分したくなるのは、清野賀子の写真においてそれ以外のカテゴリが思いつかないからでもある。「静物」とかあるいは「動き」とか、そういう印象を与えるイメージはなく、「(人物がいない)風景」もしくは「人物を写したポートレイト」のどちらかだと言ってしまいたくなる。だが、確かに「人物が写っている光景」というような写真もあったはずだ。電車の車内を写したような、特定の人に焦点を合わせた写真ではないイメージも。

 

・「風景」とは何か、についても知り、学ばなければいけないだろう。ちょうどいま読んでいたのは『分析美学入門』という本で、この領域では「美」は芸術作品にのみ見出されるものではなく「自然」「環境」の「美」も同様に考察の対象になる。まだ読み始めたところだが「自然」の「美」を捉える上での一つのアプローチが「風景」ということである。外界を「事物」や「光景(あるいは知覚)」に還元するのではなく、そうしたものも含みながら、より包括的な概念として「風景」はあるという。たとえばこうした「美(学)」における「風景」の概念は清野賀子の「風景写真(とカテゴライズしたくなるような作品)」を見るときにどのような意味があるだろうか。

 

・その問いは中断。関係はあるが、写真は写真において、その意義を内在的に掴もうとすることが必要であるように思う。写真として。つまり「写真であることの美(というか良さ)」とともに、引き続き考える。写真あるいはデザインにおける「タイポロジー」という考え方はどうだろうか。タイポロジーという考え方の応用または転用ないし拡張。「緩やかなタイポロジー」という言葉は矛盾しているのか。あるいは「自分にしかわからないタイポロジー」「自分にすらわからないタイポロジー」などと言ってみて、その何らかの集合の意味を考える。「シリーズ」「セリー」ということ。しかし違う。違うような気がする。写真は本来的に「シリーズ」を破壊するのではないだろうか。「編集」などと言ってみても、どんどん解けてゆく種類のイメージ。イメージ自体が解れてゆくことを志向している。断片であることとも関係があるが、それはひとつの定義に過ぎない。断片であろうがなかろうが、写真は解れる。写真は漂よう。写真は揺らぐ。

 

・「自分にしかわからないタイポロジー」「自分にすらわからないタイポロジー」っと言ってしまえば全部そうじゃないかと言うだろう。だからそのラインはそれ以上に押せない。無理に押すとポエム押しみたいになってしまうだろう。ある種のポートレイトがある種の風景と並置されるべきであると考えることにはどのような写真表現における方法が想定できるだろうか。「ある種のポートレイト」。しかし清野賀子の写真に映る人とはそもそも誰なのか。インタビューでは「ファッション写真」とカテゴライズされるような写真において写真に写す人物を選んだエピソードについては書かれていた。街で偶然声をかけたりすることもあるという。そしてふとある程度の人が女性であるということを思う。清野賀子の写真における女性という問題。それはたとえば牛腸茂雄にとっての子供、というように、ある作品読解の枠組みを提供してくれるだろうか。わからない。

 

・ある程度は論の矛先を想定するのは、そうでなければ論にする必要がないからで、当たり前だが、論じようがそうしなかろうが清野賀子の写真は凄い。しかし同時に清野賀子の写真は「(ある意味で他の誰の写真もそうであるように)清野賀子にしかできなかった写真による表現」が満ち満ちているのだ。いや、満ち満ちているのではなく、隠されているのだろうか。隠されているものとは、暴かれることを待っているものだとして。その人がある表現の形式を拡張あるいは更新したことを考えることには意味があるのだと思う。それは清野賀子の写真の問題になる。いくつかの入り口を作れるかもしれない。1990年代あるいはミレニアムという時代。物質的イメージの(フィルムという記録媒体とともに)写真が終わる時代の表現だったということ。それはひとつ。

 

・「人物を風景のように見ること」でも「風景を人物のように見ること」でもなく「人物と風景を同じ目線で見ること」でもない。風景と人物を通じるものとして見ること。そこに風が吹きわたるようなイメージが思い浮かぶが、しかし「風景も人物も包括するような『世界』?のような場を設定すること」ともやはり違うような気がする。写真と写真の間を安易に想定してはいけないだろう。なぜならそれは写真なのだ。フレームの外はない(現実はあったが今は痕跡すらない)。表面ではない表情という言葉はどうだろうか。「表情を見ること」、しかもあらゆる既存の表象されやすいと思われているような「感情」を振り払ったところで。自分の感情を問い直しながら、外界に存在するものの目に見える表情を見ること。共通点でも相違点でもない。それは言語的な思考に過ぎない。個別の存在の個に接近するためのアプローチとしての表情。表情を見る(追う-ついていく)写真。「バラバラだ」とも「繋がる」とも「豊かだ」とも言ってしまって許されない写真。まず「見る」ことがあり、その後「通じる」について考える写真だ。

 

・しかしこの「目に見える」ということも(そのことによってたとえば精神なるものから遠ざかろうとすることも)それはそれでひとつのイデオロギーに過ぎないのではないだろうか。同時に清野賀子の写真はその次元では捉えることができないのではないだろうか。そういう予感もある。「目に映るものがすべてだ」は、ともすれば何も言っていない。夢見がちな青少年を一度異なる思考へ追いやるための教育的アプローチではあるが、大人が本気で何事かを考えようとするとき、目に見えるものと目に見えないものとがどのように思考されるのかを問わなくては始まらないのだ。「見えないもの」について。