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  映像研究

日記

・201909060852。家で。秋になると必ず聴く音楽がありそれは秋が秋らしいことに気づいた頃によく聴いていた音楽でもある。かつて高尾に引っ越したことで気候の変化、例えば秋になると朝晩が少し寒くなり湿度が下がっていたりすることに気がついた。それを秋と呼ぶことを知った。それは2008年とか2009年のことだったはずで、その頃は今よりも全然やることがなかった。やることがないから春には山菜を探しに散歩したり秋には詳しい人に連れて行ってもらいキノコ狩りをしたり季節の変化を見るために写真や映像を撮ったりしていた。日が暮れるとはどういう現象なのか、夕立とはどのような出来事なのか、真夏の昼間に影はどのように現れているのか、木漏れ日はどのように動くのか、小川の流れはどのような速度か。そういう事物や事象を見るためにカメラは役立った。今でも目で見たことと、映像で見たこと、空気の感じ、色々なことを覚えている。それは自分のためだけの、日記のような写真や映像だった。日記だから開けば思い出せる。

 

・別のことも考える。神奈川県立近代美術館で一之瀬ちひろさんの展示を見てから、写真と風景についてまた考え始めた。映像に写された風景のイメージの中に写した人が「いる」と考えることができるのだろうか。写真は、カメラは、シャッターを押せば誰でも同じイメージが獲得できるともよく言われるが、しかし、そのことはそのこととして(事実でもある)、やはり「違う」ということも考える。私が見たものは、この写真になる、と言えるだろうか。見ることになるべく忠実なイメージであろうとすること?という言い方はあり得るだろうか。あり得るのだとしたならば、ではその行為の始まりにある「見ること」とは何か。風景とは見ることの別の言葉の表現なのか。風景=見ることというある意味では閉じた思考に対して、しかし外界は開けてもいる。移り変わりもする。そして気持ちも動く。外界=精神ではないが、しかしそこに「通路」のようなものもあるということだろうか。一之瀬さんの展示では、さらにその外界に漂う空気=人間の営みの中で意味に満たないものを見ようとするという試みも含まれていたのではなかったか。写真というイメージを通じて、政治未満の、政治以前の、生活の中の人間の様々な存在の仕方を見ようとすることを、面白い試みだと思った。

 

・そのことから、やはり、再び、清野賀子という人の写真についても考え続けている。90年代から2000年代にかけての清野賀子の雑誌の仕事の中で、今は人物を写した写真やマネキンを写した写真が気になる。それは清野賀子の写真が「風景と呼ばれる対象」を写していたとしても、それらの写真が精神的なものと関わる試みであると捉える上での足がかり/論拠となるかもしれないからで、しかし結論は急がないようにしようと思う。タイトルやテキストやインタビュー、あるいは他者の批評の中には、既に確かな、ある意味で決定的な言葉も出ているのだけれど、それらの言葉と写真とを単純に接続するのではなく、何より清野賀子の写真を見ることから、そして清野賀子の写真をなぞってみることから、つまり自分もまた写真を撮ってみることから、何か考えられることもあるように思う。

 

・全然別のことも同時に考えている。日記と思って開き直って文章を書くようになると、他人の日記を読むことも楽しくなってくることについて。他人の日記をこんなにも読むことができるインターネット素晴らしいなと、20年越しくらいで思ったりした。最近印象に残ったのは辻仁成という人の日記で、90年代にいくつかの小説を読んでみたこと以外、その後全然辻仁成という人について(二つの読み方があり、仕事よって使い分けているということなども)知らなかったのだけれども、今読める日記はとても面白い。それは自分がいまフランス語を学習しているから、フランスでの生活が垣間見えるからという理由もあるのだけれども、それにも増して父親と息子の二人の生活に惹かれるという理由もある。その日記を読むことから、かつての自分の生活と今の自分の生活について考えることができた。そして多くの(すべての?)「生活すること」が、不確かさと安心のあいだを絶えず揺れ動いているのだということが、文章を読むことから感じられる。日記であるからには思考だけでなく、書ける範囲で具体的な出来事を書いておくことも大切なのだと思う。