&

  映像研究

UA - 歪んだ太陽 (Official Video)


UA - 歪んだ太陽 (Official Video)

 

・年末年始にUAのミュージック・ビデオがYoutubeにアップロードされていることに気づいて、更新されるたびに視聴している。数年前に初期のミュージック・ビデオを集めたDVDを購入したからほとんどの映像は見ているとはいえ、このようにYoutubeで公開され、多くの人がそれらの映像を見ることができるようになることには意味があると思う。特に初期のミュージック・ビデオにおいて、1990年代後半に写真家として活動していた人たちが監督したいくつかの映像作品を見ることからは、写真と動画について、カメラと被写体について、考えることができるように思うからだ。

 

HIROMIXによる『ミルクティー』も、高橋恭司による『甘い運命』も、それぞれ見どころが多い。というか見飽きることがない。基本的にワンシーン・ワンカットで撮影・編集されていることもあるが、何よりも「ミュージック・ビデオとしてパッケージすること」ことは異なる発想によって、企画されていると思える点に惹かれる。課題はUAという一人の人間をカメラによって捉えること。何を、どのように、捉えるのか。どのような仕掛けあるいは装置によって、何を待つのか。そうした問い=企みが一本の映像になっている。ミュージック・ビデオというものを考えるときに、プロセスとしても、具体的な演出としても、グラフィックデザインの延長あるいは裾野として位置付けて、制作するという道筋があり得るのだろうが、少なくともいくつかの映像はそのようなものはなっていない。豊かな時代の(と言えるのかどうかは議論の余地があるが)偶然的な制作物とも言える。いずれにせよ現在見るならば、各映像の監督の資質あるいは嗜好、そして欲望が直裁に現れていることに驚く。

 

 

・清野賀子による『歪んだ太陽』もまた、そうした映像の一本である。個人的にはこの『歪んだ太陽』がアップロードされるのをずっと待っていた。ミュージック・ビデオらしいサーヴィスが一切無いこの映像を見ることからは、写真家である清野賀子について何事かを考えることができるように思う。清野賀子が撮影した写真は今も残されている。一枚一枚の写真や写真集という群については、その価値が認められ、多くの人に共有されてもいる。しかし同時にその写真や写真群の狭間には、いまだ光を当てられていない言葉やイメージがある。決して多くないが雑誌などに掲載された写真家自身の言葉があり、そしてただ一本の映像作品がある。

 

・映像を見る。一見してポートレートのスタジオ撮影のような背景と照明の中心にUAは立つ。沈んだ色彩が占める空間に身体が浮かびあがる。見つめることに少しの違和感を感じる程に露出しており、汗だろうか、肌は光っている。着用しているのは下着ともスポーツウェアとも見えるが、いずれにせよメイクも衣装も最低限のものと感じる。それらはこの映像の「演出」ではあるが、何事かの世界観を肉付けするためのものというよりは、削ぎ落とすためのものと思える。存在する身体が発するものを忠実に受け止めるために、不純なものを排するという考えによる演出であると言えるだろうか。それはその身体にカメラを向ける者の考えでもある。

 

UAは『歪んだ太陽』を歌っていて、その歌はそのまま音声としても記録されている。一般的にはそれをアカペラと言うこともできる。『歪んだ太陽』が商品として流通した音源はアカペラではない。だからこの映像は完成した音源とその音源と何らかの関係を持った映像を組み合わせることによって作られる「一般的な」ミュージック・ビデオではない。同様の音源とミュージック・ビデオの関係は(適切な例を挙げるのが難しいけれどもたとえば)森山直太朗『さくら』などでも見られるもので(この場合伴奏はある)、映像はアカペラで歌う人の魅力、ボーカリストとしてのスキルを映し出すとともに、完成された楽曲の「アカペラ的な」魅力をプロモーションすることが目的である。その意味で『さくら』の方は「一般的な」ミュージック・ビデオの狙うところと相違ない。森山直太朗の声が多少裏返ったりしたとしても、それはその振れ幅を含めて視聴する「よろこび」に通ずるように思われる。

 

UAには、ボーカリスト(シンガー?)としての魅力があるだろうし、アカペラで歌う姿を写し、そうした魅力が感じられるような映像を映し出すことも可能だっただろう。しかし清野が監督する『歪んだ太陽』はそのような映像になっていない点が何よりも興味深い。この映像は何なのか。『歪んだ太陽』の演出は先述したように、歌う身体の存在以外の要素を排する方に向かう。

 

(この点について、書く必要のないことかもしれないけれども、高橋恭司による『甘い運命』と比較してみることも面白い。DVDの解説によれば、高橋恭司はUAが実際にレコーディングスタジオで歌う姿を写すことを希望したのだという。高橋恭司もまたワンシーン・ワンカットで歌うUAの姿、言い換えれば「その人の存在」を映し出そうとするのだけれども、完成した映像においては、音声はその時間とは別に収録されたものであり、映し出される身体は切り離されている。これは結果的には「一般的な」ミュージック・ビデオの「リップシンク」と同様のしつらえではある(とも言い切れないところに『甘い運命』の見どころはあるかもしれないけれども)。清野の『歪んだ太陽』を見た後では、この高橋恭司のアプローチはやや不徹底あるいは曖昧に思える。あるいはその不徹底さに演出の意図があるのだとしても。)

 

UAが『歪んだ太陽』を歌う身体はどのように見えるか。ここには感じ方の個人差があるだろう(ということ自体も重要だと思う。多義性。)が、ときおり目を閉じたり表情を崩すようにしながら歌を歌う姿からは、緊張している感じが見て取れる。先に挙げた『さくら』の森山直太朗が、歌うことに集中し、一種の恍惚のような状態に入り込んでいるように見えるのに対し、『歪んだ太陽』を歌うUAは、笑みのような微妙な表情を浮かべることもあるが、全体を通じては、必ずしも歌うことによろこびを感じるというふうには感じられない。

 

・とここまで書いてみて、ようやくUAの視線に気がつく(書かないと気づかない)。歌うUAはカメラ-レンズに正対しており、基本的にカメラ-レンズを見つめている。基本的に、というのは、歌う中で目を閉じたり視線を上方へ送る時間もあるからだが、しかし歌いはじめも、歌う途中でも、歌い終わった映像の最後の一瞬も、視線はカメラ-レンズに向けられている。あるいは視線を向けることを求められているようにも感じる。このことの意味は大きいように思われるし、さまざまな映像を見慣れていて大抵の演出では驚くことのない(ミュージック・ビデオにおいてはなおさらそうである)私たちにとっても、その撮影の空間を想像してみれば、少し異様な感じを抱くのではないか。「歌うこと」と「カメラ-レンズを見つめること」、『歪んだ太陽』はこの二つの「指示」によって成り立っているように思われる。言い換えれば、この二つの「指示」を与えられた身体はどのように動くのか、ということが試されている。試された結果としてこの『歪んだ太陽』という映像がミュージック・ビデオになっている。そう考えたときに、この『歪んだ太陽』という映像は、カメラテストの様相を呈してくる。

 

映画は、成果の展示可能性そのものをひとつのテストと化することで、テスト成果を展示可能にする。映画俳優は言うまでもなく公衆の前でではなく、器械装置の前で演技する。映画監督が立っている位置は、適性検査において検査者が立っている位置とまさに同じである。強力な照明のもとで演技し、同時にマイクロフォンの要求する条件をも満足させることは、第一級のテスト成果である。(略)

映画においては、俳優が公衆の前で、ある別の人物を演じることよりも、器械装置の前で自分自身を演じることの方がはるかに重要である。テスト成果によって俳優というもののあり方がこのように変化したことに気づいた最初の人びとのひとりがピランデルロであった。彼が長編小説『映画が作られる』のなかで述べている意見はもっぱら事柄の否定的な面だけを強調しているが、だからといってこの意見の価値はほとんど減じるものではない。ましてや無声映画についての意見だからといってその価値が減じるわけではない。というのは、トーキー映画はこの問題の根本をいささかも変えないからである。決定的なことはあくまで、ひとつの、あるいはトーキー映画の場合は二つの器械装置に対して演技が行われるということである。ピランデルロは書いている-「映画俳優は、追放された人間のような気分になる。舞台からだけでなく、自分自身の人格から追放されているのである。彼は説明しがたい空しさを感じて、なんとなく不愉快になる。この空しさの原因は、彼の身体が欠落症状を呈することにある。つまり彼自身が揮発してしまい、そして彼の現実、彼の生、彼の声、彼が身動きすることによって生じる物音を奪われて、沈黙したひとつの映像となるのである。それは一瞬スクリーンの上で慄えたのち、しじまのなかに消えてゆく。……小さな器械装置は、彼の影を用いて公衆の前で演技するであろう。そして彼自身は、器械装置の前で演技することで満足しなければならない」。同じ事態を、次のように特徴づけることもできる。人間は-これこそが映画の働きなのだが-たしかに彼の生きた人格全体をもってではあるが、しかしこの人格のアウラを断念して活動しなければならない状態にはじめて置かれる。というのは、アウラは、人間が〈いま-ここ〉にいることに結びついているからである。アウラの模造というのはありえない。舞台上でマクベスを包んでいるアウラは、生身の公衆にとってマクベス役の俳優を包んでいるアウラと切り離しえない。それに対し映画スタジオにおける撮影の特異なところは、公衆のいるべき位置に、器械装置が置かれるということである。したがって俳優を包むアウラは脱落せざるをえない-そしてそのことによって同時に、彼が演じる人物のアウラもまた脱落せざるをえない。

ヴァルター・ベンヤミン、1995、「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクション1』浅井健二郎編訳 久保哲司訳、ちくま学芸文庫

 

・「器械装置の前で演技する」こととはどういうことか。映像の制作がカメラによる撮影-編集-上映という単線的なプロセスから遠ざかり極限まで複雑になってもなお、このベンヤミンが提示した問題を考えることができる。どころか、カメラを持つ者は、なおもこの問いと向かい合わなければいけない。だからこのおよそ一般的なミュージック・ビデオに相応しいと思えないカメラテストのごとき映像もまた、同時に清野にとってそのような問いを探究するための実験であるように思われる。

 

・清野賀子は日本の郊外や都市の片隅を絵画的とも言えるフレーミングによって切り取り、静謐な風景のイメージを作り出す作家と紹介されることが多いが、それは『The Sign oh Life』という仕事によるところが大きいだろう。しかしそれはあくまでもこの写真家の一面に過ぎない(と考えてみたい)。たとえば初期のファッションの仕事とその展開として見ることができる小冊子型の作品『Chicken skin photographs』においては、少なからず集中的に人物を撮影していた。また後期の『至るところで 心を集めよ 立っていよ』に結実する、雑誌に掲載されたイメージも含めて広く見れば、むしろ「人を写すこと」の方がその仕事の広範に点在していて、その範囲のうちに「風景のイメージ」や「事物のイメージ」が存在している、というような印象さえ(個人的には)持っている。それゆえ人物を正面から写したこの『歪んだ太陽』という映像を、清野の仕事の本質と結びつくものとして見てみたいと思った。

 

・清野賀子の仕事における「人を写すこと」をもう少し厳密に捉えようとすれば、「カメラを間に置いて他者と向かい合うこと」と言えるだろうか。もちろん「間に置いた」カメラは、写真家と被写体にとって同じ物ではない。一方にはファインダーが、もう一方にはレンズが突き出している。その決して対称ではない関係を生み出す装置を介して、他者と向かい合った結果がイメージとして現れる、あるいは定着される。そのような写真という媒体の特性を極める思考がひとつにはある。そして同時に重要だと思われるのは、そのカメラを向ける他者に「個別性」と「普遍性」を見る視線のあり方である。写真家が対象に向ける眼差しは写真を通して何事かを表現する。あるいはそのように構築されて写真のイメージは現れる。あらゆるポートレートとされる写真のうちにあり得る「個別性」と「普遍性」のバランスが清野の人物を写す写真にあっては、周到にずらされているように感じられる。「人を認識する上での属性を剥ぐこと」が重要であると思われるが、この点はまだ考察できていない。

 

ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』における「アウラ」の問題は、ベンヤミンの主要なテーマのように紹介されることが多いが、実際のところ、自分は明確にその意味を掴むことができていない。20世紀前半の映像環境において、その媒体のうちにある、人間の存在を脅かす側面と人間を解放する可能性の側面の両方を併せ持つ概念として提示されたのだと理解しているが、単純すぎるだろうか。上記の引用ではピランデルロの小説を引きつつ、主にその人間の存在を脅かす側面が論じられている。こうした考えは、今では20世紀の人びとの映像に対するひとつの典型的な姿勢と言えるだろう。しかし現在において、その「アウラ」を別様に考えることもできる。

 

人間は-これこそが映画の働きなのだが-たしかに彼の生きた人格全体をもってではあるが、しかしこの人格のアウラを断念して活動しなければならない状態にはじめて置かれる。というのは、アウラは、人間が〈いま-ここ〉にいることに結びついているからである。アウラの模造というのはありえない。

 

ベンヤミンによって「人格のアウラ」と呼ばれたものは、本当に断念されなければならないのか。むしろ、映像によってこそ、その「人格のアウラ」を受け止め、映し出すことはできないか、と問うてみることはできる。また清野賀子の写真に引きつけて考えたときに、その「人格のアウラ」なるものを、礼拝の場でも展示の場でもなく、「至るところ」に見出すことができないか。そういう問いの立て方=探究の道標があっても良い。言い換えれば、人間の姿のうちに「人格のアウラ」(「個別性」と「普遍性」?)を感じ取り、それを写真という媒体によって顕現することはできないか。そのような課題に取り組んだのが、清野賀子という写真家だったのではないかと考えている。

 

「人を写すこと」「カメラを間に置いて他者と向かい合うこと」であり、具体的には「カメラを他者へ向けて」「瞬間を選び」「シャッターを押す」その行為が「他者を映し出すこと」を到来させる。その一連の出来事において、その写す他者から何も奪わず、且つ何も付与せず(この二つは結果的には同じことだろうか)、ただその存在を立ち上がらせようとすること。清野賀子が人物を写した写真を、そうした試みとして考えてみる。

 

(略)自分が見たままを写真にするという意味では、まだまだできることもしたいこともするべきこともたくさんある。物が、人が、在るがまま立ち上る瞬間がある。もう少し詩的に言ってしまえば、夜が夜より夜らしく、風が風より風らしく写るということがある。そんな瞬間が好きなんです。

清野賀子(インタビュー)、2006、「心に風が吹くように」『SWITCH』3:80-81。