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  映像研究

考え

 
・201809100925。一日空いて中央図書館。いま50%くらいのとことまで来ていると思っていたが昨日の朝にエクセルシオールで作業していて、別の纏め方を思いついてしまった。どうしよう。そうなった場合やはり50%〜60%くらいの到達度ではあるが、中くらいの手術が必要になる。でも「終わらせる」ことや「ポイントを稼ぐ」ことの重要性は理解しつつも、考えを纏めることにおいて「ある地点」まで行かなければいけない。それがなによりも大事だ。それは昨日の業務のゼミ的な時間に自分が他の人へ向けて(はっぱをかけようと思って)発言したことでもある。人に向けて発した言葉は自分に戻ってくる。ブーメランという比喩は適切であると思う。


・アイディアを考えとか発想とか訳してみたとき、それはどういう物としてイメージされるか。塊、塊だが柔らかい、ふわふわした、いやごつごつとした・・・流れるし変化する。人のアイディアを見ることは楽しいしその生まれる瞬間や動いている様は有難い出来事だと思う。作品はその意味で尊い。その尊さにダイブする瞬間がある。それが映像作品ならば「うわー映像って凄いな」と思う瞬間があるだろう。風が吹いているということが一体どういうことなのか。エフェクトではなく、言葉に還元できない、なおかつ「目で見ることとも異なる」風が吹いているということの凄さについて。


・誰かが何度も見返した「時間の記録」が、いま別の場所で再生されるということ。これはだから、映像それ自体の凄さが完全に解放された凄さでもあるということなのか。


・自分はそういう映像を見る者である。いつか自分も作れたならば、と思うが、当面は「見て」「考える」「指をさす」ことしかできない。「若い人の映像を見る感覚は変わっていて・・・」とは言うしそれは事実そうなのだとも思うが、カメラがカメラである限りにおいて、本質的に変わりようのない事柄もあるように思う。カメラが見たものを人が見るということ。そして「カメラが見た」という言葉の意味を更新すること。「カメラは何をしているのか」と考えること。


・自分の作業に戻るために中断。


・201809101234。少し早めの昼食をとって作業に戻る。ここから、多分この文章で一番重要な作業。


・201809101431。ひと山こえた。もうふた山くらい越えたら風景が見える感じ。