&

  映像研究

写すことを書くこと

・202201091607。集中が切れたタイミングでお茶を淹れて(温め直し)、洗濯物を取り込み(晴れていたからタオルケットを洗った)、そして深呼吸。現在を取り戻して書いても良い。

 

・7日、8日、そして今日9日と、カレンダーの三連休から一日手前にずれた自分の作業のための3日間だった。家から出ることなく、唸りつつ文章を書き進める。飽きたらネットオークション(資料を探すが気づくと全然関係無い物を検索しているから恐ろしい)。合間に食べたり寝たり入浴したりしながら。

 

・主に「写真を撮影すること」について書いている。「写真を撮影すること」は身体的な動作であり、具体的な行為なのだけれども、文章として書いていると、その身体性や具体性から離れて、熟語や概念の組み合わせで何事かを述べているように思えてしまう。立ち止まって確認しないと、どのような言葉も内実を伴わなくなる。たとえば「見ることとは、」と書いてみて、それがどのような「こと」であるのか、自分が全然わからない、ということにならないように。時々カーテンを開けて窓の外の風景を見る。

 

・高橋恭司という写真家がインタビューで話している映像を見ていると、まさに写真を撮影をしている最中の映像があり、それを見ていると、少し「写真を撮影すること」に対する感覚が戻ってきたように感じた。カメラのファインダーを覗いて、しかるべきタイミングで(それを決めるのは撮影者であるが、撮影者だけが決めているとも言い切れない)シャッターを開く。このように写真を写す身体が記録された映像は案外珍しい。たとえばスタジオのような場所で職業写真家が次々とボタンを押しストロボが焚かれる記号的な「写真撮影」を目にすることはあるが、そうではなく本当に「写真を撮影すること」が記録されている映像は少ないのではないか。この映像において撮影された写真をインサートする必要は全く無いと思うが、それはプロモーションビデオだから仕方がないのだろうか。むしろ、このような撮影において、シャッターが閉じてファインダーを見ることを止める瞬間の身体の様子が見たくなる。

 

・映像で人間を見ることも、写すことを書く上で刺激になる。というかそれが必要に思える。昨日から公開している『春原さんのうた』の前売り券が、棚に置かれているのを見ながら、それを見るのはいつだろうかと考える。

 

・作業のために中断。