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  映像研究

具体と回想

・春からはじまった新しい仕事が1ターン終わる。細部において反省も多いが、ひとまず大きな意味で授業という形にはなっていると思う。そう思い適切な自信を持つことで次の考えに進める。よりよくするためにはどうしたら良いかと。

 

・この授業をもう何度か繰り返すことが今年度自分に与えられた仕事で、全然気が抜けない。気が抜けないまま、ときどき肝を冷やしつつ、しばらく続けたら夏になっているのかと思うと、これは大変と思うが、同時にそれを楽しみと思う感じもある。楽しみと思うことで力がわくだろうか。誰よりも自分が学びたい。

 

・午後から雨が降り夕方には一時強まる。乗り換えをして原宿で下車。NHKホールまで歩き、家族と座席で合流。小沢健二「モノクロマティック」を鑑賞する。「ひふみよ」から15年という時間に驚きつつ、その間に、自分にも、外側の諸々にも、変化がある。ある時から、その変化を確かめるために、小沢健二の活動を見ているかもしれない。同時に、数年に一度ならば、せっかくならば、テーマパーク的な高揚を積極的に楽しもうという感じもある。

 

・音楽というかたちで、考えるべき事柄が色々に全然整理されず投げつけられている、という印象もあり、丁寧すぎるほどに親切に物語ってくれているような印象もあった。「抽象の暴力」に対するさまざまな「具体」が提案されていたと感じる。たとえば料理、たとえば都市を見る目、触れられる色や形と、それをつくること。具体に満ち満ちた「(帰る場所としての)生活」とは。もっと深く考えることもできそうだけれども、などと思っていると、音の力と言葉の力に流されていく。

 

・老いとノスタルジーという問題もある。歌詞や文章の中で、過去や未来について考えられたことはこれまでにもあっただろうが、歌う姿と声に、生々しい老いを感じた。老いとその先に必ずある死を肯定する思考が、具体の問題と繋がるのではないか。懐古の対象となることを恐れずに30年前に書かれた音楽を演奏しているようにも感じられた。ポップミュージックがクラシック化していくこと。「90年代の夏」が固有の意味を持ち形容詞となった時に生きている。

 

・他の人がどう感じたのか分からないけれども、自分は『サマージャム'95』の演奏には、夏の怪談的な雰囲気を濃厚に感じた。老いていく歌声とラップパートの瑞々しいとすら感じる響きのコントラストによって、全然別の時間が一つの舞台に一挙に立ち上がっているようで、怖く、悲しく、そして他の場面より強く劇的なものを感じた。具体的な夏の出来事が描写されているラップ。ここにもノスタルジーについて考える手がかりがあるかもしれない。

 

・今日の昼に図書館で手にしたのは、主に高齢の方を対象とした「回想療法」「回想法」に関わる本だった。この意味での回想を入口にして、写真や映像が記憶と結びつく仕方について、しばらく自由研究したいと思っている。写真を見ることや、写真を撮ることが、人の生とどのように関わり得るのかと考えてみたい。

 

・今日の夜のNHKホールの舞台と演奏も、その研究と繋げて考えていたかもしれない。たとえば、高齢の方の介護と呼ばれる営みの場面に、そのBGMに、『今夜はブギーバック』が流れる日が必ずくるのだと今日わかった。