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  映像研究

現場

 
・現場からお送りします、と言うだろう。あるいは、現場の声を聞くべきだ、とも言うだろう。ここは現場である。いつでもどこでも現場だが、人は時々「ここは現場ではない」という感じを持つこともある。現場とは何か。現場は当事者という概念と結ばれる。現場は時間と身体を伴う意味を形成する。現場原理主義、と言ってみてもちろんそれを批判したいのではない。「現場」という語を問い直すことが必要だ。人がどのような想いに突き動かされて「いま、ここが現場だ」という言葉を発するのか、考えてみる。それは「現場の声」なるものとは少し位相が異なる。


・エアコンの効いた調布の猿田彦珈琲は現場だろうか。ヘッドフォンでDorianの『midori』というアルバムの曲を聴いていて、去年の夏の後半は稲城の図書館でずっと流しっぱなしにして、書く作業をしていたことを思い出す。厳密に言うと書く作業そのものをするときには音楽を聴くことができない。だから音楽を聴きながらまずはウォーミングアップ的に日記を書くか、ぱらぱらと何かを読みながら少しずつ書くことに向かっていく。音楽のリズムやメロディ言葉がキーボードを打つ行為に勢いを与える。


・現場ということを考えたのは美術手帖の新しい号のパフォーマンス特集を読んだかもしれなくて、そういえば表象の今年の特集は「シアトリカリティ」についてだった。現実の場所、という語の指す意味やその可能性について考える言葉を読むことがある。それは自分の関心である「事物」の領域とも重なるだろう。何を、何が、なぜ、どのように、現実、と言えるのか。人は生命のないものを制御し制御されることで本当に狂わずに生きていけるのか。生きて動いているものから離れて充実を感じることができるのか。そういう大きな疑問を掲げて生活を継続すること。


・メディアの仕事をしています、と言う。そこで意味されているのはマスメディアということだろう。とても雑に考えれば、メディアの仕事とは現場と現場ではない場所を媒介するということなのか。現場からお送りします、と言うだろう。現場を現場でない場所に「接続」するためには、特別なテクノロジーが必要とされる。なぜなら、ある範囲を越えた場所で起こることは、見えないし、聞こえないからだ。それを記録して、通信する、特別なテクノロジーが必要になる。そういったテクノロジーを持つ資格を「メディアの仕事」と言ったのだろう。その資格を問い直す運動はつねにあった。自由ラジオもコミュニティTVもZINEも、そういう「問い直す」意味があった。ことはさておき、現在ではその資格は開かれているように思われる。事実そうである「開かれ」と、実際は開かれていない側面がある。ただ、すべてが「開かれれば良い」ということも違う。


・ここで唐突にも一枚の写真を見る経験に進んで(戻って)みたならば、それはシャッターが押された時間/空間と、それを見る時間/空間が二重化して、そのどちらもが「現場」と言い得ることに気がつく。現場の二重化、あるいは現場の複数性。(これは、ただ、当たり前のことを、もっともらしく、確認しているに過ぎない。自分にとって必要な。)二重化された現場は、「重なり合っている」と言うこともできるように思うが、「関係がない/あるいは関係が弱い」と言うこともできるように思う。シャッターを押した人間とそれを見る人間は別の人間でもあり得るのだし、そもそも時間を経れば「同じ人間」が「同じ」である保証はない。この意味では、シャッターを押した人間はその写真を見ることはできない、というこの文は思弁的に過ぎるだろうか。


・他者の思考に入り込んでいく手前で、他者の言葉の森に迷い込む予感を持ちながら、あくまでも自分の経験を、自分の言葉で、自分のリズムで書いておきたかったのだ。それは喫茶店という現場が成し得る。


・シャッターを押した自分は、別の日に(早い場合はその日の夜に)その撮影された写真を見ることになる。現実に起こった出来事、自分がいた場所、自分にとっての「現場」は、写真という紙になって自分の手の中にある。写真をめくりながら(36枚のセリーとして)それを見る行為が、自分にとって決定的な経験だったと、いまあらためて思う。思う、と書きながら、そこに物語る欲望やノスタルジーが入り込んでいることを意識しながら。しかし、そのノスタルジーが「写真を見ること自体にあるノスタルジー」とどのような関係で、またどのように浸透しあっているのか、まだわからない。ただ、いま、考えることは、それは「図像の勢いの高揚感」や「スタイルをなぞることの面白さ」だけではないということだ。そういう表面的な気持ちの裏には、写真を見ることの不思議さがベースラインのようにある。


・そのことから始めている。像が記録されることの不思議さから思考が始まっている。あるいは像が「在る」ことそのこと自体の凄さにいつも驚いている。同じびっくり箱で毎日びっくりする人は結構凄いのではないか。びっくり力。そしてフィルムとデジタルという問題について、おそらくは10年くらい前に気がついた感覚を、この2年くらい中心的に考えている。自分の、あの、36枚をめくる感覚を支えていたのは、フィルムという具体的な「事物」「メディア」であったのかもしれない、と考えたならば、それで写真を実際に撮ってみて、またその感覚を確かにする。あるいは「ネガ/ネガティブ/否定性」という事物の性質についてはどうか。現場の光の印象は、別の機械にとっての像となって(現場をネガティブ/否定し)また現場に光に近しい色とともに、紙となって戻ってくる。そのことの変さ。やはり一度「箱に入れる」のだ。箱に入れたものはなんであれびっくりする。ならばデジタルイメージとは透明のびっくり箱のような機能(ものではなくアプリケーション)なのだろうか。透明なびっくり箱でびっくりする人はいない。あるいは何かが狂っている。


・鏡という「事物」と、デジタルミラーという「アプリケーション」の違いについて考えている。鏡を覗き込む欲望とフィードバックする映像を見ることの欲望、その重なりと差異について。クラウス『ヴィデオのナルシシズム』を更新できるか、という問題。中断。