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  映像研究

選択

 

・調布の珈琲店にて、今日も少し遅れながらも書く準備を継続する。珈琲店には本棚があってその本棚を見ることも楽しい。楽しいとか言っている余裕もないはずだけれども、言葉が外からやってくるという状況をひとまず作っておかないと何事も考えられないように思う。自分の家の本棚は読んでいない本も含めていまの自分の思考に対応しているから、つねに本棚は開いていたい。そして手に取ったのは『やわらかい言葉と体のレッスン』という本で、そのページをぱらぱらしながら何事かを考える。人とのコミュニケーションを言葉にした文章には強く惹きつけられる一方で、そういう文章を読むこと自体についての抵抗がある。だけれども前半のインタビュアーとしての姿勢、とりわけ「聴く」行為についての部分は面白かった。


・中嶋さんという人が書いた『アホアホ本エクスポ』『ワンコイン古着』『展覧会カタログ案内』という本を続けて読み、何かを「買うこと」「集めること」「見ること」「選ぶこと」について考えた。その「見る=選ぶ=集める」こととは何なのか。自分も持っているように感じるそういう視線、事物の見え方、それに伴う言葉、事物が集まっていくことに並行して思考の領域のようなものが形成される。それは多くの人が理解できることであると同時に、その事物=対象は必ず異なるから、思考自体もオリジナルなものとなるのだろう。箱庭、ということとも少し違う。閉じていて、少し開いていて、田んぼの水のように入れ替わっている。田んぼのような本棚。


・膨大な数の中からたった一つを拾い上げることは、それ自体がドラマティックな行為であるので、古本屋であれ、古着屋であれ、その場所が放つアウラのようなものがある。そのアウラの正体が知りたい、と思う。そのアウラはある、具体的な、唯一の物に惹かれて、その事物に手を伸ばし拾い上げる瞬間にしか感知できないから、その行為は反復/継続される。古物を「見る=選ぶ=集める」ことの喜びとは、古物それ自体の趣というよりも、そうした特別な出会いの感覚にあるのだと、あらためて考えた。


・同時に「見る=選ぶ=裁く」ような視線を自分が確かに持っているということを、ほとんど自白のように話した夜があった。あくまでも笑いながらではあるけれども。「見る」ことはある意味では決定的に強者の行為である。それは繰り返し論じられる「見る/見られることの非対称」という問題ではあるけれども、ではその関係性の外にあって「見る」ということは、それでも中立たり得ないのではないか、という問いである。古本屋で一冊の本を「見出す」ことと、山でひとつの岩を「眺める」ことは、別のことであるように思う。そこで何度も思い出すのは木皿泉の小説に出てきた木を見るエピソードだった。

家事を終えた昼下がり、一樹を膝に置いて、庭の銀杏の木を見ていると、そのまま二人がその木の間に、すっと入っていってしまうような気がした。自分と一樹の間に境目がないように、自分たちと庭の風景の間にも境目はなく、全て消え去って、ただそこに在るということだけがある、不思議な心持ちだった。が、一樹がしゃべり出すと、そんな感じは消えてしまった。いつの間にか、自分は『ママ」という者になっていて、一樹は夕子の姿を見失うと、全力で声を上げた。それはそれで嬉しいことなのだが、もう二度とあの時みたいに、一樹と一体になることはないのだ、ということだけはわかった。一樹が何かを指し、覚えたての名前を得意そうに繰り返している姿は、とてもかわいいのに、寂しい気がした。
 
私は、ここに来てよかったんだよね。夕暮れの中、すっくと立つ銀杏に聞いてみる。今や、銀杏の木と自分に境目は、なくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹を抱いて庭を見ていたときに感じた、あの不思議な心持ちだった。それは、借りていたものを一切合切、ようやく返してしまったような気持ちのよさだった。


・この「見る」は、ある意味でありふれた、どの場所にもある、あるいは「かつては当たり前のようにあった『見る』」という行為で、ヴァルター・ベンヤミンはそれを「礼拝価値」と言った。「礼拝価値」から「展示価値」へ、という近代の移行。それは「岩を見る」ことから「古本を見る」ことへの移行でもある。そしてその「岩を見る」「木を見る」は端的に「見る=祈る」ことであると言える。かつてあらゆるイメージはその成立において、祈る行為と結びついていたのだから「見る=祈る=イメージ」は、人間に与えられた、当たり前の力であったのだと思う。そして恐らくは「聴く」ことも。小沢健二は「見る=祈る」ことについて『うさぎ!』のシーンとして、以下のように書いた。

トゥラルパンは、灰色のつくり出す世界は、眼が疲れる世界だと思っていました。

あらゆることが、あらゆる場所に書いてあって、書いてあることを読もうとすると、その下にまた小さい文字で何か書いてあって、裏をめくるとさらに小さい文字で、何かびっしり書いてある。ふう、疲れる、と空を見上げようとすると、そこにも大きな文字で、スニーカーかハンバーガー屋か銀行の名前が書いてある。そんな世界でした。

トゥラルパンは、眼というのは、「外から入って来た光が網膜に映像を映す器官」などではなくて、何かにふれる、何かにさわる、触手のようなものだと思っていました。

何かにふれたり、さわったりするだけではなくて、それは、何かに向かって祈ることもできる、特別な器官でした。人はその眼で、空に祈ったり、女神の像に祈ったり、大きな木に祈ったりして、生きてきました。

そんなすばらしい器官が、灰色のつくり出す世界では、「新しい商品をおぼえさせられる穴」くらいのものに成り下がっている。この女の子は、そんなことを考えていました。


・この「見る=祈る」行為は現代において「美術館に行ったからスイッチをオンにできるような行為」ではない。そしてその行為を取り戻そうとすることは、カルト教団の修行のような不健康な方向に向かうことにもなりかねない。なぜなら「見る=祈る」行為を前提とするような共同体は既に別のものに、形態/構造としても性質としても、変わってしまったように思うからだ。この社会において「見る=祈る」行為を獲得しようとする者は、今ある共同体から離れなくてはいけないのだろう。木皿泉の『カレーパン』では、それは死の間際に一瞬知覚される、ほとんど宗教的な赦しのようなこととして描かれていた。小沢健二の『うさぎ!』でのその思考は、西洋近代から離れた「第三世界と呼ばれるような場所」のエピソードして描かれた。そのことは何を意味するのか。中断。