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  映像研究

自分よりも遥かに

・後から書いておく日曜日の思考。自分よりも遥かに年齢が少ない(若い、という言葉を回避しようとしている)、ちょうど20歳ほど少ない人と業務の後に少し話をしていて、自分よりも20歳も年齢が少ない人が物心がつくどころか表現することと生きていくこととの間で試行錯誤する様を聞きながら、そもそも自分よりも20歳も年齢が少ない人がそのような地点に立っていることに驚き言葉を失うのだけれども、それは自分の感覚の更新がいつでも現実に対して遅れていることに拠るものだ。18歳であれ20歳であれ22歳であれ「社会に出る」というメタファーを採用するのならば(それを仮のメタファーとしてみる)、自分よりも遥かに年齢が少ない人たちが次々と「社会に入ってくる」ような感覚も生まれる。「既に入っているのですよね?」「だいぶ前から入っているのですよね?」という前提で、その入り心地を問われたならばまた言葉を失う。おそるおそる言葉にしている時のコードは、嘘をつかないこと、脅さないこと、幸福を願うこと、意味に頼りすぎないこと、固有名詞にも頼りすぎないこと。あとは何か。次の行動が予感されたときに話を切り上げること。そして自分が反省すること。辛うじて会話ができている(と思っている)ことに感謝をすべきなのかもしれない。この状況を客観的に考えてみて。そうした関係性が複数ある中で、他者との距離をはかったり、自分の状態を確かめたりしていると、あらためて自分は重力のはたらく圏内に存在しているのだと思う。この重力のはたらかない空間ないし状態はあり得るのだろうか、と考えてみることもできる。

 

・重力について。書いているときには少しだけ重力から離れている。たとえば今の自分は100年前に書かれた文章を読みながら、見ることについて考えている。それは自分にとって一種の逃避でもあるのか。そう問うてみることもできる。さしあたりその傾向を「普遍を考える」あるいは「普遍に触れる」と仮に言ってみて。そういう領域を自分の内にあたためながら、何事かを続けていくことを、どのように他者に説明することができるのだろうか。健康に心身がはたらくならば「普遍を考える」あるいは「普遍に触れる」ことと、この現実を生きることを往復・反復する。行き来する。誰もがそうするのだろうか。そうしているうちに生は二重化されるのだろうか。自分にとっては、現実とイメージが二重化されるということはこうした実存的な領域に関わるのかもしれなかった。断片化と統合のセットに対抗するために現実とイメージの二重化を提起したボードリヤールの写真論を思い出している。

 

・写真は朝の光。梅雨に入る前の眩しい光は忘れられやすいから写してみる。

 

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