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  映像研究

練習について

・「練習」という言葉は便利だと思う。練習というと「本番」の手前にある準備のようにも思えるが、自分のニュアンスは「訓練」とか「修行」に近い。あるいは「自己への配慮」に近いことでもあるだろうか。「レッスン」とか「プラクティス」とか。しかし言葉が重要なのでもない。写真を撮ることは「見ることの練習」「考えることの練習」であると言ってみて、ならばそれは「書くことの練習」でもあるだろうか。 撮ることと書くことは離れている。しかしそれは撮られた写真を見ることによって接続されるかもしれない。と回りくどく書いてみて、これは「写真について書いているのならば写真を撮ることもするのですか?」という質問に答えてみようとしたときに自分が考えることでもある。何かを考えるか。

 

フィルムカメラで撮影をして、もちろんどのように撮れているのかわからない状態でラボに出し、フィルムの現像とともにL版がプリントされてくる。6×9で撮ると比率は35mmと同じだから、6×7に慣れていると一見するとフィルムのサイズを気にしない。35mm=スナップのような感覚で見てしまう。しかしやはり細部は豊かでずっと見てしまう。特に木の枝の一本一本、草の光に照らされている様子が面白くて見てしまう。フィルムでスキャンしてみて、データにしてしまうのはなんだか勿体無いなと思いながらも、データ化したからこそ見ることのできる細部もある。自分から離れたところにある様々な事物が画面上の細部になりそれらが連なり光景になっている。光景に「主張」はないけれども、ずっと見ていると一挙に押し寄せてくるようにも感じる。

 

・集合写真のワークショップをやったときに自分が投げてみた問いは「同じ場所で同じ状況で撮影された複数の写真(take1、take2、take3・・・)は『同じ写真』なのか『違う写真』なのか。それが『同じ』であるのはどのような意味で『同じ』で、あるいは『違う』のであればどのような意味で『違う』のか」というものだった。その問いによって引き出される言葉にはたとえば「世界は絶えず変化し続けているゆえに全ての写真は『違う写真』である」というものだが、その「違い」はたとえば光景の事物、つまりイメージにおける細部の変化によって感じとられることもある。風が吹いていればわかりやすい。写されているのが人間であれば表情の微妙な違いはイメージの雰囲気に決定的に作用する。撮影時にはあれやこれや(カメラの操作など含めて)考えたことも、現れたイメージには言語的には響かない。

 

・カメラを手にして「場所とは・・・」と思いながら撮影をする地点を探しているが、写真を見ることからは「場所とは・・・」という思考はあまりはたらかないようにも思うが、どうなのか。それは自分が知った場所の写真であると認識するからなのか。「場所」「地名」「定点観測」どれも写真の重要な切り口、軸、のように考えたりもするが、どうなのだろう。写真はいつも「現在」の「ある場所」を写す。「光景」「眺め」という言葉はしっくりくるし「事物」を写すこともある。場所については保留。

 

・しかし「自分が知っている場所」という前提からは「写真は(基本的には)ある人が見た視覚に近いイメージとなって現れる」という特性も考えられる。写真にとって「撮影者」とはどのような位置にあるのか。写真を見る人を分類することはできる。「撮影者」「撮影はしていないが近くにいて撮影者が撮影したことを知っている人(たとえばポートレートの被写体)」「撮影者が撮影をした時に撮影者のことは認識していたが撮影したことは知らなかった人(たとえばイベントのスナップに写り込んでいた人)」「全然別の場所にいた撮影者の知人」「全然別の場所にいた他人」「生まれていない」など。そうしたステータスはグラデーションでもある。人は「自分が撮影した写真を見ること」が好きなのだろうか。好きなのだとしたらなぜ好きなのだろうか。嫌いだとしたら?そうした心理を社会的な階級、階層と関係づけようとしたのはピエール・ブルデューだったのか。

 

「家族との関わりから自由になった写真実践は、家族の中に統合されている度合いの最も少ない人達によって見られ、しばしば常軌逸脱の表現形態をとって現れる。こうした写真実践は、実践の質や強度を書く社会階級について決定している規範の拒否によって定義されることが最も多い。」

 

・「写真を見ること」から、気がつくと思いもよらなかったことを考えている。たとえばそれはフレームの問題で、フレームは大抵四角い。フィルムとデジタルではイメージの区切られ方に違いがある。フィルムでは本来は完全な矩形ではない。角のところはちょっと丸くなりニュアンスがある。その感じが面白くて、何か小さく心を動かすものがあって(舞台裏感?)広告などのデザインにべた焼きのイメージが取り入れられてたりしたのも90年代の記憶だろうか。イメージの現れ方(光学と化学)と消え方(機械的な限界)はフィルムを見ることから考えさせられる。あるいはそれをスキャンして見ることから。