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  映像研究

ここは図書館

 

・図書館に戻ってきた。他の何でもなく自分の仕事をするための時間と場所を守ること。それが何より難しく生活を継続するための業務(労働とは言いたくない)をしていたならば、あっという間に時間は流れてあっという間に眠って起きて季節が巡る。去年の夏はこの図書館で文章を読み文章を書いたのだった。いま同じことが、同じことをさらに内容を更新しながら、できるのか。それを問いながらまずはこうしてメモを書く。書くための準備をする。図書館に置いてあったポパイの新しい号をパラパラして村上春樹とTシャツとサーフィンについて思う。


・先週は久しぶりに上京する友人が二人も重なり、それほど熱心に観ないなりにサッカーも重なり、自分の業務での話し合うべきことも重なり、完全に自分の生活のペースというものを放棄した。放棄すると楽になるかというとそういうこともなく、ただ「放棄しているな」と思う。放棄しない、ということが自分の態度だ。それは自分の生活のペースとは何かを調べて考えを更新することであり、そして言葉にするとあまりにも楽観的だと自覚しながらも「未来に対して希望を持つこと」でもある。


・人と話したことを織り込みながら、何かを読み、何かを考え、言葉を書くことは、ほとんど呪いのようなことであると思う。そしてそのことがまだ自分には許されている。「許されていない」はいつも自分の側から立ち上がる気持ちで、それはそれとして、やり過ごしながら、続ける。と同時にこの先それほど長く「許されている」状況は続かないような、根拠のない感じを得た。その感じにも言葉を与えてみるだろう。友人は不惑を迎えるにあたって、何が惑わずなのだろう、というようなことを言っていた。人と話す場にも過去にあった場が織り込まれている。あるいは「折り畳まれて」いる。その中で話される「惑い」は自分にも何かのサインになる。


Twitterを見ていてふと気になって自宅を解放して古本を売っている人の家に(店に)行ってみたのは土曜日のことで、自分が想像していたどのパターンとも違うその様子に、なんというか打たれてしまった。普通の住宅街にある場所で、全然文脈なく、おそらくは義務や使命感的なこととは離れて、何事かをすること。しかもある程度の確信をもって。「ほどほど」で止めないこと。そして「見ること」のある方向での研ぎ澄ましの極。そういう活動の凄さを知っている。知っているけど最近出会わなかった、もしかすると見ないようにしていたものに触れて、自分も何かの活動について想いを馳せる。


・「もう時間がない」という強い言葉を、自分の声として内側で発してみることがあるが、それは自分を鼓舞することにはならない。なぜなら本当には「もう時間がない」と思っていないからだ。まだ時間はある。あるいは、どれほど時間があるのか、計りかねる。その時間を図る尺度は、生活の中で生まれるものや死ぬものを前にして一瞬立ち上がるように思う。生まれるものや死ぬものに関わる言説に触れることで呼び起こされるけれども、次の瞬間には消えている。それはとても幸せなことでもあるだろう。「もう時間がない」と自分の声で発する地点、その場所のことを自分は知らない。


・夏になってしまった。