&

  映像研究

見ることの疲労

・202208181927。朝早めに家を出て最寄りの駅ビルのパン屋で一時間だけ作業。シャッターが開くと同時に眼科へ滑り込む。昨年のこの時期と完全に同じタイミングで眼精疲労が極まってきた。市販の点眼薬では根本的な解決にならないために診療。そして処方箋。一方職場へ行けばあと数日の通常業務が極まりつつある。

 

・眼精疲労は業務において「見ること」が重要であるから、と書いてみて、しかし「見ること」が重要である業務や仕事や制作は多くある。「見ること」が重要でない業務などあるのだろうか。ゆえに業務は眼精疲労の理由や根拠とは言えないのだろう。たとえば自分は一日中ディスプレイを見るようなことはなく、そうした人の業務および眼精疲労とは根本的に異なる。

 

・「みる」と打ち込んでみて、すると「見る」のほかに「観る」や「視る」、「診る」や「看る」もある。それらの複数の意味にわたって「みる」ことをしているかもしれない。あるいは漢字の意味が緩やかにつながり合うようにして、自分の仕事が浮かび上がってくるようにも思う。「見る」ことは、当然のことながら、「目を使う」ということではなく、ある神経をはたらかせることだと気づく。それは自分が、業務の傍らで書く、写真家についての論文とも通じるかもしれない。

 

・たとえば、「見出す」と書いてみて、その言葉のうちには、「見ることによって掴み出す」という意味が浮かぶ。それは、意識してそうする、ということとも違うように想像される。存在する事物や現象に反応するようにして、ふっと「思わず」手を伸ばすようにして、見入る。気づけば、普通に書いている「思わず」も「見入る」も重要だった。

 

・辞書で「みる」を調べれば、「世話をする」、「確かめる」、「試みる」、「経験する」、「連れ添う」も現れた。およそあらゆる、大切そうなことが挙げられていた。そうした語と意味を島のようにイメージして、その島たちの基礎にあるのが、「みる」かもしれなかった。この想像を保持しながら、自分のあらゆるアクティビティを緩やかにつないでいけるならば良いと思う。

 

・光を集めて存在を確かめている。あるいは光を介して触れている。その驚くような生理と運動の出来事。時々疲労して当然と思う。