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  映像研究

考えるとぼんやりするの間

 
・考えることとぼんやりすることの間をただ過ごす一日があることの贅沢。そういう時間は言葉の指し示す意味での「有難い」時間。そういう昨日を過ごした。夜に少し業務の連絡をするが基本的には誰とも何も連絡をしない。少し気になっていた本を読み、研究も無事にはかどらず、昨日は動画について、今の世の中で映像と呼ばれるものがどういうこと/環境であるのかということについて、自分の考えをアップデートさせたいと思った。手に取ったのは本屋で見かけて著者の名前よりも大きく帯に記された落合陽一の文字が気になった、ロバート・キンセルという人の『YouTube革命 メディアを変える挑戦者たち』という本で、それをパラパラと読みながら、自分の知らないことをまさにYoutubeで調べてみたりする。そして日本のYoutuberと呼ばれる人たちの映像を、これはこれで一つの社会科見学だと思いながら、色々見て/聞いてみる。多くの人が画面に向かって身振り手振りを交えながら何事かを話す。話す言葉の「間」を刻むようなかなり極端な編集がなされているが、同時にそれは「かなり極端だ」とは思わせないように為されていることにも(皮肉ではなく)感心する。これが「革命」かと考えてみると、そういう解釈も成り立つとは思いつつ、どこか違和感もある。ともあれしかし、そういったことをブログと呼ばれるようなフォーマットで書き記していることも含めて、例えば10年前とは明らかに変化したメディア環境もあるだろう。ブログを書き始めることほどカジュアルにYoutuberになる選択肢があるわけではないと思うが、しかし考えてみれば「blogger」だって、相当に相当なネーミングなのだった。そしてだから現在は「言葉」よりも「顔」や「声」と「編集」の質が重要な意味を持っている、とそれらしいことを言うことはできる。それは確かにリテラシー(読み書き)の更に先、という感じもある。「ニュアンス」が大切だというか。


・一方で、例えば最近買い直してみた(図書館で借りて読んだだけでは読み足りないと思った)濱口竜介という人の『カメラの前で演じること』のタイトルで示されているようなことは、そのこととどういう関係があるのか、関係はないのか、と問うてみたならば、いや、同じ時代にあって「関係がない」ということはないだろう。むしろ「カメラの前にある『声』や『顔』の問題」として(あえて)隣に置いてみた時に、考えが進むこともあるように思う。中断。