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  映像研究

断片

・202006221818。暗号のような数字の続きの言葉を書く。今日は家で作業ができる幸福な一日だがまったく進まないのと進む方向が定まらない困難。業務にまつわるアイディアは無数に思いつき作業中にメモしたりするのだが自分の研究についての発想がまったく展開しない。思考の力を適切に振り分けることが何より難しい。難しいところに来ているな、と思う。語学の勉強も並行して継続しているが、定着することよりも忘れていくことの方が多いように感じる。難しい。難しいと書いてみる。

 

・友人からお勧めされた、のんさんが映画を作る過程を追った映像を前半だけ見た。物を作ることにおいて、開いた姿勢を保つこと、勇気を持って他者の話を聞くこと、そうしたすべてのコミュニケーションもまた表現であることを知ること、などが重要であることを確認した。確かにここには今見るべきものが映っていると感じられる。お勧めしてくれた友人に感謝。中断して作業。

 

・ふとTwitterを見たならばかつて少しの期間関わった人たちがそれぞれに変化しつつも生活をしている当たり前の事実に気持ちを持っていかれる。Twitterで読むからだろうか、それぞれに言葉をとてもユニークな方法で扱っているように思えて、その言葉の扱いの中に自分がかつて放った言葉は潜在しているのだろうかと、少し感傷的な(?)気持ちで、拾い上げるようにその言葉を読んだ。詩と呼ぶ必要はないのだろうか。しかし詩はいつでもどこにでも普通に書かれている。

 

・そういう断片的な言葉や、会ったことのない人が書いた日記、具体的な出来事の描写、言葉による記録、などを読むことに救われている。一方で自分の言葉には啓蒙のような意識が入り込んでしまう。

 

・写真をまた、イメージにおいて、そうした自分が憧れるような言葉に似た、断片的な記録のようなものとして考えているのだろうか。それが作家と呼ばれる人の撮影した写真であろうが、そうでなかろうが、作品にする意識とは異なる「表現」について考えているのだろうか。それはメディアの条件を試すような、拡張するような「試み」とも異なる。撮る者の記憶と結びついた記録であると、とりあえず示しておくのはどうか。しかしそれはまったく他者と共有できない。それがある極端なイメージの定義で、バルトの問題はその定義と関係しているのではないか。明日のオンライン勉強会に備えて思い出してみる。

 

・書く準備も撮る準備も何もできないまま6月が過ぎる。