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  映像研究

畏怖、もしも・資本について再び・そして今

 
・駄洒落からはじまった。はじまったけれども、ところで数日前にtwitterの時の河をぼんやりと眺めていたならば(結構ぼんやりと眺めている)ついこの間観に行った映画『幸せの経済学』が「渋谷文化プロジェクト」という賑やかな感じのウェブ・サイトで紹介されている、と書いてあって、そうか、ちょっと意外な感じもするけどそういうこともあるのだな、それは良いことだな、できるだけ色々な人が観に行って、何か考えたならば、それはきっと良いことだな、と思って、そのページを見てみたならば「新しい世界の見方」というテーマで他の2本の映画とともに記事になっていた。なっていたのだけれども、それは本当に「世界の見方」なのかどうか相当に不明なセレクションだった。というか端的に最後に1本はなんなのだろう。なんなのだろうと思って脱力した。


・もちろんそういう本があることは知っていて、そういう本が売れているであろうことも知っていて、そういう本が映画になっていることだって知っていたものの、そしてこういうときにわざわざちょっかいを出すことは野暮だということは知っているものの、敢えて言うならば、どんなことでも「もしも」で許されると思ったら大間違いだ。夢のような「もし」は多くの場合素敵だけれども、現実に機能する有害な「もし」だって存在する。極端にデフォルメされた女子高生のイラストレーションや国民的アイドルグループ的なものを口実にして子どもにビジネス書を読む練習をさせることを今すぐに止めた方が良い。その「もし」は、あらゆる意味でお洒落ではないと思うし、そもそも、やっていい悪ふざけとやってはいけない悪ふざけがあるのだ、といったことも思ったりしないこともない。呆れつつ考える/考えつつ呆れる。(固有名を書かずしてあることを示すのは難しい・けど面白いから・言葉にリンクが張られると・それが批判的な意味であっても・好むと好まざるとに関わらず・情報を増やすことに寄与してしまうから・それを避けてみた)


・個人的には、このことはきっと2008年前後くらいの「マルクス・ブーム/資本論・ブーム」の反動(どちらが反動なのかはさておき・揺り戻しであるという意味で)なのだと思っていたし、今もそう思っている。それはもちろん本屋の新刊書籍のコーナーに「今こそ『資本論』を読む!」とか「脳に優しいマルクス主義」とかの本が並んでいたならば、そのような状況がどうにも落ち着かないという人もいるのだと思う。あるいはまた同じ頃この国には、恐らくは同じような理由によって「空前の『蟹工船』ブーム」という謎のブームとかもあったりもしたので、そういうのはそういうのとして、まぁ売れるならある程度は良いけれども、あんまり本気にしてもらっても困るんだよね…というような人もいたのだと思う。そして「そういう人」にとっては、仮にそれが娯楽であっても「貨幣が…命がけの跳躍を…」とかよりは「組織における…モチベーションが…」とかを考えといてもらった方が、安心且つ安全なのだと思う。すべてが予想ですけれども。


・それでしかし、そこで考えるのは、これはまったく個人的な感覚だけれども「マルクスについての本」を読むことは、ある時期ある瞬間においてはかなりお洒落なことだと思われた(そして時々そのお洒落の波が寄せてはかえす)けれども、一方「ピーターさんについての本」を読むことはまったくお洒落ではないのではないか、というこの感覚は、個人的なものなのかどうかということだ。そのようなことを考えたときにいつも思い返すのは、宮沢章夫という人の「『資本論』も読む」という本なのであって、そして(これも個人的にだけれども)備忘録を記しておくと便利だなと思うのはこういう時で、例えば4年くらい前には、その「『資本論』も読む」の『も』の部分について、それがどういう感覚から来る『も』なのか、考えてみたりしていた。繰り返してしまうけれども、2000年代前半の段階で『資本論』を読んでいた(読み直していた)宮沢章夫という人は、なんてお洒落なんだろう、と思う。さすが「文化的ヘゲモニー」を「それって要は『かっこいい』ってことじゃないか」と解釈した人だな、とも思う。そしてまた、そういう意味での「マルクスについての本」にまつわる色々な感覚が、一方「ピーターさんについての本」にもあるのだろうか、とかも思ったりする。どうなのだろう。わからない。


・ちなみに『資本論』を結局20代の間に読めなかった自分は、2011年の6月、色々なことが起こる中で、たまたまタイミングが合って(図書館にあったから)柄谷行人という人の『世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)』という本を読んでいる。数日前にも記した通り「世界システムX」とかの単語にいちいちひっかかったりしつつも少しずつ読んでいる。決して読みやすい本ではないけれども、去年読んだ佐々木中という人の『切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』や、先週読んだ大澤真幸という人の『社会は絶えず夢を見ている』を読んだこともあってか、このような本も少しは読めるようになってきた。そして1ページに平均0.7回くらい「マルクスは…書いている」とか「『資本論』においては…」とか書いてあるので、だんだんマルクスという人に対して気安くなってきた。


・以前ならば何かの本を読んでいて「マルクスが…」と書いてあると「おお、マルクスだ」と思って、ちょうど「コム・デ・ギャルソン」のタグを見たときくらいには緊張していたのだけれども、最近は「あぁ、マルクスか」という感じで「ステューシー」くらいの感覚になってきた。…というようなことを考えていると全然進まないけれども、しかし読書は楽しい。しかし高校生のときにもう少しだけでも世界史の基本的な事柄を勉強しておけば良かったなぁとも思う。それくらい「わからないこと」が多い。きっと当時は「宗教改革が…」とか「市民革命を…」とかいう事柄にはまったく興味がなくて「渋谷系」のことばかり考えていたのだと思う。ぼんやりと「カヒミ・カリィが…」とか考えていたら世界史は赤点だった。しかしそれから10数年経って今は「世界同時革命」について書いてある本を夢中で読んだりしている。


・雨が降っている中で、雨の音を聞きながらずっと本を読んでいると、色々なことを考えたり、色々なことを思い出したりもする。