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  映像研究

UTSUROI

 
・人の心は移ろいやすい。大丈夫、と、大丈夫じゃない、の間をいつも揺れている。そういう移ろいやすさについて、人は興味がありつつも普段あまりその部分に焦点を当てて考えることがない。そもそも自分は「心」について考えることがない。しかしその移ろいやすさ、や、はかなさ、言葉にし難いものやこと、について、表す方法はなんだろう、と考えてみる。そういう「表現」はどこにあるのだろう。「言説」ほど形式化されて結論が示されているのではなく、かつ「快楽」ほど自分のための営みではない、その中間にあるような表現について考えてみることは、今の自分にとっての二番目か三番目くらいの自由研究のテーマになるかもしれなかった。


・研究の作業の中で、あるとき「現実とはどう定義できるでしょうか」とディスカッションしていて、深く考えずに自分が発した言葉は「死ぬっていうことじゃないでしょうか」だった。現実や存在はただ「ある」ことなのにも関わらず、その訳語の「リアル」は別のニュアンスを持ち、さらに対義語としての「ヴァーチュアル」も含めて、よくわからないままに普段の言葉に埋め込まれている。現実や存在を相対化してみる、その「してみる」ことは重要で、しかし「してみる」ことが面白くなってしまうから、何も確かなものはないとか思っている間に、ヴァーチュアルなふりをした、ただのコミュニケーション・メディアが入り込んでくる。SF的な想像力で考えてみる、その思考実験は重要だとして、しかし、私たちは、実際に、生きている色々な経験の中で、どの事象に、どの瞬間に、思わず心が惹かれて、そこから何かを考え始めるのだろうか。自分は「欲望」でも「悲しみ」でもなく、そして「変化」とも少し違い、突き詰めれば「消滅」に焦点を合わせようとするだろう。いつか消えるということ。


・昨日4月23日は国際フォーラムで小沢健二のコンサート。凄いことだった。音楽と朗読とMCと・・・というふうに分けるのでなく、あれをすべて音楽と考えた上で「音楽って色んなことができて凄い力を持っているんだなぁ」と当たり前のような、しかし自分にとっては全然当たり前じゃない、初めて何かを知った喜びとともに、単純な感想を漏らす。2010年以降に見たステージの中で、「ひふみよ」は特殊な体験として特別だとしても、圧倒的に面白かった。過去の言葉を乗り継ぐようにしてテーマを浮かび上がらせる、そのテーマがテーマという考え方を壊しているように思えた。あるいはテーマとはそもそも取り替えが利くようなものではない。ある人の探求の別名ならば、あれが小沢健二という人のテーマなのだろう。その一つの断面として「やがて僕らが過ごした時間や/呼びかわしあった名前など/いつか遠くへ飛び去る/星屑の中のランデヴー」「ぼくたちがいた場所は/遠い遠い光の彼方に/そしていつか全ては優しさの中へ消えてゆくんだね」というような小沢健二の歌詞における刹那性ということは多くの人が言うことだけれども、その音楽の意味は時間を経てどんどん大きくなっているように思える。


・そしてそのコンサートを体験して残っているのが、自分の場合は、移ろいやすさ/消滅すること/時間について、だった。かつて聡明な若さだけがなし得る予見として書かれた言葉が、本当に生きられた先に発せられるこということの強さ。アンコールの『春にして君を思う』はこのコンサートの中心のひとつとしてはたらいていたけれども、その「君とゆくよ/歳をとって/お腹もちょっと出たりしてね/そんなことは恐れないのだ/静かなタンゴのように」というそれ自体やわらかい音楽が力を持つのは、それが本当に20年後に「老いをおそれない人」によってうたわれることにおいてだった。もちろん、人の心は移ろいやすい。から大丈夫、と、大丈夫じゃない、の間をいつも揺れている。だから誰もがきっと「おそれたり、おそれなかったり」を揺れることになる。それでも、なんとか、根底のところで、その現実や存在自体を肯定するには、どうしたら良いのか。何かできることはあるのか。言葉や音楽はどうはたらくのか。そういう問いが満ち満ちていたように思う。


・素朴な意味で「どうすれば老いをおそれずに生きていくことができるか」ということは、多くの他者と共有できる問いであると思うし、まさに「共働」ということを考える上でもキーになる。「孤高と共働が一緒にある世界へ」だけれども、共働を考える上で、あるいは表現を考えて/実践する上で、まず初めにあるのは「知覚」であるだろう。知覚は思考よりも前にある。知覚は知識よりも前にある。先入観という先入観よりも前にある経験としての知覚をまずは考える。大人になった人間は知覚を学び直さなければいけない。大人が知覚を学び直すきっかけとして子供の存在があるのだろう。そして大人である人間が知覚を学ぶということは、何かの快に身をまかせる/溺れるということではなくて「知覚を問い直す」ことへ向かうだろう。感触を楽しむ、というのは学ぶことの入り口にはなるけれども、それだけではない。例えばそこで有効であるように思えることは「別の動きを見る」ようなことであるかもしれない。当たり前だと思っていた生活の仕方や仕事や所作とは違ったそれを見ること、それ自体が決定的に重要である。誰もが偶然のタイミングで何かを学ぶのだとしても、だからあらためて小沢健二という人の世界を巡る時間の豊かさと、その時間の中に満ち満ちていたであろう知覚の深さと広がりを思わずにいられない。そしてその学びが言葉やメロディーや動きや・・・音楽になる(ことの不思議)。


・コンサートの最後はいつもカウントダウンで終わると言う(そうだったか?)。「5・4・3・・・」とカウントされると客席から「いやだー」と声が聞こえる(ファンの側からのサーヴィスとして?)、それに対して小沢健二は「大丈夫」と言う。何がどう「大丈夫」なのかと思うけれども、同時にその「大丈夫」の理由はすべてあの時間の中にあったことを理解する。そして一言「生活に帰ろう」と言って暗闇に戻る。その生活は膨大な混沌とした知覚の別名でもある。