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  映像研究

20170807

 
・自分の誕生日だった。家族は朝から出張に出かけていて目が覚めたらサンタ的な位置に贈り物が置かれていた。家で不在だった時のアマゾンで購入した書籍を受け取って今。図書館で引き続き論文を書いている(書く準備をすることもまた書くことの一部なのだと自分に言い聞かせながら)。


・一昨日の授業で展示の時間ずっと数を数え上げる音声が室内に流れ続けるというストイックなサウンドインスタレーションを制作した学生がいて、自分は即座に適切なコメントができず気の利いたコメントも言えず、しばらく黙ってしまったあとで「長い(かもしれないしそうでないかもしれない)人生の中で、一日くらいずっとこの作品の空間にいるのも良いかもしれないと思いました」という、力の入っていない感想を辛うじて漏らした。その作品は自分に「長い(かもしれないしそうでないかもしれない)人生の中で」ということを思い出させてくれた。いつも「長い(かもしれないしそうでないかもしれない)人生の中で」のことを考える。長い(かもしれないしそうでないかもしれない)夏の一日くらいはずっと漫画喫茶にいるのも良いかもしれないと思っているし、長い(かもしれないしそうでないかもしれない)夏の一日くらいは市民プールに、ビアガーデンに行くのも良いかもしれないと思っている。


・しかしそういうこととはまた別に、たとえば「ずっと数を数え上げる」という単純な状態にいたいと思うのはどういうことか。どういう思いがそうさせるのか。かつての自分ならばそのためのひとつの方法が「山に登ること」であったかもしれない。あるいは短期間の断食をしてみたいと今でも本当に願っている。「長い(かもしれないしそうでないかもしれない)人生の中で」二年くらい湖畔の小屋で暮らしたのはソローだった。「長い(かもしれないしそうでないかもしれない)人生の中で」一年くらいは、植物が育つのをただじっと見ることだけをしていたい。しかしそうした「時間(始まりと終わりがある)」を設定することは難しい。難しいし誰しもができることではない。さらに考えれば自分が「その時間を(いつかは)選ぶことができる」と思っていること自体を疑う必要もある。しかしそういうことを少しだけ横に置いておけば、たとえば自分は、宮沢章夫という人が何かのタイミングでマダガスカル島に行ったと書いていたことを時々思い出したりする。そういう時間がおそらく過去にもあって、この先にもあるとしたら、それはどういうものなのか。


・図書館で必要な読書の合間に手に取ったのは雑誌『現代思想』の「コミュ障の時代」という特集で、國分功一郎という人と千葉雅也という人の対談や幾つかの文章を読んでみて、この数日の間全然考えていなかったことを考えた。集団の中での振る舞いとその振る舞いを考えることは場を強張らせることもある。考えていなかったわけではないけれども、そのことの重さをしばらく忘れていた。自分はその重さを忘れて振舞っていたということ。あるいはその重さを忘れられたからこそ振舞うことができるということ。

(略)この現状において「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族性を肯定することにつながると思うんです。

という國分さんの言葉は、自分にとってはいくつかの方向に考えを進めるきっかけになる。たとえば業務の現場で自分がどのように振る舞うのかということと、親しい人の間で生活をすることと、今現在何か文章を書いていることのそれぞれに、あるいはそれらを繋ぐようなかたちである問題を立ち上がらせるきっかけになる。そしていつか自分も(再び)ソローの森の生活や宮沢章夫マダガスカルのような時間を選ぶことができるということは、ある生活における判断であると同時に「精神的な貴族性の肯定」であり、その意味では「言葉の力」でありもする。もちろん「「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族性を肯定することにつながる」一方で「精神的な貴族性=「言葉の力」」ではない。色々な精神的な貴族のかたちや、色々な精神的な貴族の解釈がありえるに違いない。中断。


・帰宅。良い誕生日だった。誰とも会わず図書館で本を読み続ける。途中少し飽きたら図書館のカフェコーナーでケーキセットを注文。気分を中断したい時には音楽を聴く。柴田聡子の「さばーく」と水曜日のカンパネラの「ピカソ」が良かった。音楽を作る人にとってのレコーディングのような時間があれば良い。明日も同じようなスケジュールで過ごす予定。このダイアリーと連携していたカウンターが今日でサーヴィスをやめたから、明日からは、誰が、どのくらい読んでいるのかわからない。わからなくても書くという面白さ。