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  映像研究

ソローは森の生活を

 

・ソローという人は「森の生活」を2年と2ヶ月続けたらしい。そういう事実から何を考えるか。「2年2ヶ月の間ストイックな修行のような時期を経て精神的にも肉体的にもわからなかったことがわかるようになって(「成長」して)再び社会に戻った」というのは、一体、誰による、何のための解釈なのだろう。ソローという人はその前にもその後にも生きているし、生きていた。森の生活へと向かうような流れがあって、それをやめてまた別の場所に移動するような流れがあった。湖の近くの自分で建てた住居に住むことはたぶん楽しいことで、それは発明で、あえて言うならば「ハッキング」で、だけれどもしかるべき時が来たら湖の近くに住むことも、自分で建てた家に住むことも、やめる。やめない人もいる。やめずに続けて、しかもそれを誰にも言葉でリポートしなかった人の(多くの)「森の生活」が、かつても、今も、あるのだろう。


・「絵を描く」ということについて考えていた。フィルムでもデジタルでも写真を撮り、あるいはビデオカメラで撮影することもできる。それでも、そういったこととは別に「絵を描く」ということがあるのだろう。いまこうして書いているようなメモと似ているような(でも全然違うような)クロッキーや、スケッチが、どこかで、誰かの、引き出しの奥の、スケッチブックに、ずっと存在し続けているだろう。自分は全然そういうことをしないから、時々(年に一度くらい)そういうことをしてみるととても楽しい。


・「絵を描く」ということについて考えていた。ある人がある絵を描く。クロッキーやスケッチではなく、作品というようなもの(作品とは何かという問いはそれはまた違うチャンネルで考えるべきこととして)を描きあげる時に、絵とそれを描く人との間に存在するような空間と時間について考えている。その空間は目には見えないし、その時間は例えば「2年と2ヶ月」とかいう風に量ることはできないかもしれないけれども(描き始めてから完成までの時間ということはあるかもしれない)その存在を想像できるように思う。偶然にも自分の周りには絵を描く人が何人かいるので、その人たちが、目と手で、風景を掘り起こしていくような、あるいは風景を鎮める?ような、そういう試みや、実験や、対話や、練習や、空間や時間のことを考えていた。


・そのことをとても尊敬しつつ、羨ましくも思いつつ、自分は例えば言葉を記す練習をする。それがテクスチャーを持っていようが持っていなかろうが、言葉は言葉として、自分のものとして/だけれども自分が所有しているという意識はないままに、それを残そうとする。