・ぽっかりと空いた時間だろうか。いまのこの時間は今までの他のどの時間とも似ていない。強いて言うなれば2011年の3月と似ているだろうか。何かを待っている時間だろうか。考えている時間かもしれない。何のためでもない時間かもしれない。賃金と交換することのない時間だ。変化を見る時間。日常とは違う時間のなかで、自分にとっての新しい考えを準備するような時間かもしれない。
・そんな時間にも何かをしなければいけないのではないかと思って本を闇雲に積む。目の前の事柄とは直接は関係がない、いわば気を紛らわせるような本をと思うけれども、実際は「関係がない本」なんてないのだった。そして論文のために大学の図書館から借りていた本は必要最低限の部分しか読めなかった。あるいは全然読めなかった。読んだ本も読めなかった本も図書館から借りていた本は返却する。返却してしまった本(それはまたいつか読みたい本でもある)を記録しておくならば、
- 『ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?―感性論的メディア論』
- 『叛逆 マルチチュードの民主主義宣言 (NHKブックス)』
- 『無機的なもののセックス・アピール (イタリア現代思想2)』
- 『眼に映る世界―映画の存在論についての考察 (叢書・ウニベルシタス)』
- 『ユートピア的身体/ヘテロトピア (叢書言語の政治)』
- 『プレカリアートの詩---記号資本主義の精神病理学』
- 『ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』
- 『グリーンバーグ批評選集』
- 『解放された観客 (叢書・ウニベルシタス)』
- 『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章』
・そしてまた本屋へ行って本を買う。手当り次第に買ったならばそれを読めるものから読む。小説を久しぶりに読んでみたいと思って『想像ラジオ』を買った。あるいは木皿泉のシナリオ『ON THE WAY COMEDY 道草』というシリーズを読んだりもしている。そして平田オリザという人の書く「わかりあえないこと」とは何か。ワークショップ形式の授業について考える。あるいは全然違った事柄としての身近な人とのコミュニケーションについて考える。たとえば自分にとって相当に上位に位置づけられる「理解者」だと思っていた人と、次第にコミュニケーションがとれなくなるというのはどういう事態なのか。人が言葉をはなせなくなるということはどういうことなのか。そんなことさえも考えたかもしれない。
- 『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』
- 『想像ラジオ』
- 『ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)』
- 『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)』