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  映像研究

2014年の8月の終わりに熊本へ行く

・8月30日から3泊4日で熊本へ家族2人で旅行へ行く。そのうち2泊はそれぞれの友人の家に1泊ずつ泊めてもらう。東京から離れた場所で生活する友人の暮らしを知ること、そのこと自体がこの旅行の目的でもあったかもしれない。飛行機で行くと仕方がないけれどもその移動した距離が身体的によくわからない。だけれども風景は確かに違う。風景のなかの例えば緑の、植物の様子が違う。その違う風景のなかにいてその違う風景をしばらく見ていると、今この場所は自分が生活している場所とは違った場所なのだということが少しずつ理解される。そしてその場所から、今自分が生活している場所へ帰ってきたならば、考えたことはあまりにもたくさんあり、同時にこの何年かの時間の流れ(の速さ)を思わずにはいられないけれども、それは言葉にしない。すぐに言葉にしない。すぐに言葉にすることが難しいということがある。あるいはそれはたとえば自分がこの先の自分の暮らしをどのように再構成するかということでしか、消化することができないかもしれない。どのような家に住み、何を食べ、どう生活するかということについて考えるだろう。


・そして自分が何事かを考える際の拠り所にしている「イメージ」と「言葉」の頼りなさにほとんど絶望しながらも、そして「イメージ」と「言葉」と「電子テクノロジー」によって運転されているシステムの脆弱さあるいは狭さにむしろ痛快さを感じながらも、さしあたり、この場所から考えをはじめる。はじめることを継続する。継続することを選択する。その選択はまったく個人的なことで、気がつけばその選択がまったく個人的であることに、つまり気がつけば自分や他の誰かも当たり前のように他の人とは交換することができない生活を送っていることに、あらためて自分は驚くかもしれない。


・その「交換できなさ」について考えたならば、それは特に面白いテキストの材料になるような考えではないように思えるのだし、あまりにも当たり前のことであるかもしれない。自分の置かれた状況によって戦略を組み立て直すしかない。あるいは何か決定的なことに気がついてしまったならば(一方でそれを言葉にすることを試みながらも)、元の戦い方を同じように続けるわけにはいかない。そしてだから、しかしそのようなこともまたその時代に規定されるということなのか。いま電車のなかで少しずつ読み返している宮沢章夫という人の『東京大学「80年代地下文化論」講義』を開けば、次のような言葉があった。

考えてみれば、マルクスが『資本論』を、膨大な時間をかけて書いたという行為も、極めて「陣地戦」的です。「いかにして〈機動戦〉じゃなく〈陣地戦〉で戦うことができるか」。僕なりに解釈すると、「いま、ここ」という場所を大事にすることだと考えているんですよ。幻想みたいなものに向かってやみくもに戦っていくんではなくて、現実感、まあ生活感と言ってもいいかもしれないけど、そうした中で戦えるか。(略)ただ、〈陣地戦〉をやっていると、保守化していくようにも感じる。陣地でじっと動かないで戦いつつ保守化ではないことができるかどうかは、むずかしいところです。〈機動戦〉は、それをしていれば、あたかも保守化から免れていたり、ラジカルに見えてしまう。ところが本当は、単なる子供のふるまいになっていたのではないか。というのが、80年代の人々が60年代に対する反省として持っていたものだったけれど、だからといって、保守化したらなんの意味もない。


・この講義録の部分はマルクスを解釈する柄谷行人の言葉に対して、文化のレベルで捉え直す/あるいは文化の政治性を読み込もうとする宮沢章夫という人の考えによるものだけれども、自分にとっては、これもまた現在の色々な人の色々なあり方について考えるきっかけになる。当然のことながら明確な意味での政治的な「闘争」をしているわけではない自分は〈機動戦〉と〈陣地戦〉もそれ自体二分では考えられない。ひとりの中にも〈機動戦〉も〈陣地戦〉もあるかもしれない。〈機動戦〉と〈陣地戦〉を行き来する小さな揺らぎはつねにある。〈機動戦〉と〈陣地戦〉はそもそも空間的なことを指してはいないだろう。しかし何よりも自分の生活を〈陣地戦〉になぞらえて、それで何か安心を得るような(こういう戦い方もあるよねというような/それを「保守化」と名指すこともできる)ことは避けられるべきだろう、ということを学ぶ。そして戦いの結果はおそらく、あるようなないような、物語の結末のようなことではない。そもそも戦いは(たとえそれが〈機動戦〉的な戦いであろうとも)一定の期間継続されなければ何事も考える材料を与えないかもしれない。それが〈陣地戦〉的な戦いであればさおさらで、「いま、ここ」という場所で何十年と続けて、ようやく何らかの成果を感じられる、というようなことなのだろう。何の話だったのかと言えば、それはひとつには「場所」の問題だった。