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  映像研究

ニュース

 
・例えば宇多田ヒカルが出ていたテレビ番組をテレビではない方法で視聴している。2016年の「いま・このとき」をどうすれば感じることができるのか。


宇多田ヒカルの歌を(音楽を、とか曲を、ではなくて、あえて「歌を」と言いたい)特別な気持ちで聴いていたのは2000年代後半のことで、「keep tryin'」にしても「blue」にしても「goodbye happiness」にしても、何かを諦めつつ、手放しつつ、なお生きることだけは継続していること、そのことに対するギリギリの信頼のような、そういうことを感じさせる歌があった。


・月曜日(祝日)の終わりには久しぶりに業務でチームを組んでいる3人でささやかに打ち上げる。そうした時間は大切だと、あまりにも当たり前のことを思う。その場で色々な話をしたけれども「広告代理店の社員の方が亡くなった」という、2016年の「いま・このとき」にニュースで知った出来事についても、少し話をした。


・人が亡くなること、ましてや直接面識のない人が亡くなった出来事について語ること/あるいは書くことは難しい。どんなに自分のためのメモ、と言おうともこうしたネットワークに接続されたテキストで。しかしなにかそのことをちゃんと捉えなければいけないと、思う。「広告代理店」とかっていうあらゆる属性を越えて。


・一方で(そのこととは接続できない/あらゆることは接続できるしできない/あるいは自分の中では接続され得る)雑誌「spectator」の新しい号は北山耕平という人の特集で、なにか気になって購入して、いま読んでいる。編集者の方のインタビューだけれども、それはその方が体調を崩された「5年間」という時間のドキュメントでもあるのだろう。それを読む。


・急に寒くなって、着るものも変化して、空気の感じも変わって、もうすぐ「着込む」というふうに意識するようになるだろう。昨晩は今年最初の湯豆腐だった。湯豆腐を食べると高尾の平屋の光景が思い出される。「面倒だから毎日湯豆腐」の日々が思い起こされる。張りつめた空気の。駅までの道。


・「マイナンバー」というものを求められることにも、それを許さなければいけないのか。疑問はありながらも譲ってしまうこと。ニュースを見聞きする。


・「人の顔を見る」ということについて少し考えた。「顔色をうかがう」とは微妙なニュアンスを表した言葉だと改めて思う。自分はこれまで「顔」のことを考えなかった、あるいは積極的に考えようとしていなかったのだと思う。それはいつも記号を越えてしまうから。記号以上のことを感じて、それをいかに言語という記号で伝えようとすることができるか。