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  映像研究

無為

 
・雑誌「spectator」の北山耕平という人の特集を読んでいて、そこに再録されている1999年に書かれた文章、『同胞一和 差別根絶問題』に掲載された言葉を読んでいた。いま自分は「自然」という言葉を、どういう実感を込めて使うことができるだろうか。ぼんやりとした「良きもの」という以上の(あるいは「それとは別の」)意味でその言葉を使うことができるかどうか。自分は。


・そうして何かから身を守るようにして、この日常とは全然違う考えが思考に侵入してくる。そういうことはこれまでにも何度も(何度か)あったかもしれない。その予感はあった。いくつかの出来事があった。外れる予感はしていた。決定的な出来事は自分のからだについて考えたことかもしれなかった。直線的ではなくて円を描くように(公転)移動していたならば、全然違う時間に、しかし同じような場所に存在していることもある。子供の時から「そういうの、かつて自分にもあったよ」というような物言いが好きではなかった。問題は「いま・この場所」にいることのほうだった。


・電気を使った道具の一切を捨て去ることなしに、あるいはもう少し限定して、ネットワークに接続された器具を捨て去ることなしに、どうしたら、この時間をこの時間のままに過ごすことができるのだろう?練習が必要なのだろうか?そのための。とても日常的な行為としてのレッスンが。自分の状況を記述しておく。本棚に置いていてしばらく手にしなかった本に手を伸ばしてみる。例えばそれは『優雅な生活が最高の復讐である』という本だったりする。それが何を意味するか。


・というようなことを考えていた10月12日は、こうした自省と、少しの部屋の片付けと、衣替えと、架空の授業を考えることと、少しの文章を書くことで終わった。強制終了したような一日だった。他人に向けてのメールを書かない。