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  映像研究

メモ

 
・論文を書く作業と並行して、清野賀子についての自由研究も継続している。いつかそれを「清野賀子(試)論」といった何かにすることができるだろうか。それは純粋にいま自分が考えてみたいことである。書き出しは「清野賀子という写真家がいた」になるのだろうか。今はいくつかの雑誌を手に入れてそれを見たり、書かれたテキストを読んでいる。あるいはウェブで見つけた『ChickinSkinPhotographs』という冊子を購入してみて、それを見ている。そして先日ある方から教えていただいたシンガポールの雑誌に掲載された写真を見る。別の雑誌のインタビューで「ふと雑誌を開いたらいい写真があった」ということの良さについての発言があり、自分にとってそのシンガポールの雑誌の写真はそういうものだった。良いというよりは、はっとする、あるいは少し恐ろしくもあるものだったけれども。


・清野賀子という人の特に後期の写真は、「静かな」というような言葉で形容されるようなイメージではない。というかあるイメージを「静かな」「静謐な」とか言ってしまうことは、何事かを見えなく(感じなく)させてしまうことかもしれなく、全然違った意識や環境を、そのイメージの周囲に考えなければ、結局撮られた写真のスタイルのことしか言えなくなってしまう。「猛スピードで明滅するこの時代のスピード」という言葉は、確かに写真家自身が書いた言葉なのだろう。見出されるべき「通路」とは、そのスピードの狭間にある、かもしれない。「この時代」からは何人たりとも逃れることはできない、ということが写真からも、言葉からも、感じられる。『A』と『ゆきゆきて神軍』のカットは、どういうイメージだと言えるだろうか。その二つが選ばれたということはなんとなくわかる。わかりすぎるほどにわかる。ではそれを「写す」ことはなんなのか。写真家は一瞬、その写真を見る側(私たち?)を意識しているのか。それはサインなのか。


・写されたイメージはそれ自体がサインであり、またサインに満ちている。ボードリヤールは意味を宿す記号を写真の画面から消滅させることを実験した。記号であることをやめることはないが(それはありえない)「空虚な記号」としかいえない地点まで、記号を疑い、試し、引き摺り、そして別のものに変移することができると考えたのだろうか。中平卓馬はこの空虚な記号としての写真を撮り続けた。それに「ドキュメンタリー」という言葉を与えたのは、本人の意図であったのかどうかはわからない。そうした少なからずコンセプトを思わせる言葉は不要であるようにも思える。いずれにせよ、2000年の前後に、中平卓馬と清野賀子が見ていた光景には通じるものがある。そしてあるいはジャン・ボードリヤールも。