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  映像研究

旅に出ない理由

 
レヴィ=ストロースの「旅が嫌いだ」というフレーズは今やあまりにも有り触れている。観光に対して冷めた視線を送ることも有り触れていれば、あえてそれを楽しもうとすることも有り触れている。むしろ「強制的に移動させられること」あるいは「強制的に移動できないようにされていること」の方に考えるべきことがあるかもしれない。自由に対して拘束。拘束について考える。無意識に、何かに、見えないけれども、小さく縛り付けられているということ。重力について。定住について。ある時期にある一定数の人々がその重力に逆らって(それを一度解かれて)自由になったように感じたあの時間はなんだったのだろう?それは2011年から2012年を指している。


・自分の中にいまの生活とは全然違うテンポ、抑揚、タイムラインを走らせなければいけない。うっすらと鳴っているBGMあるいはベースノイズのようなもの。それは言葉だけでも、ファッションだけでも、人だけでも足りない。あるいは自分の生活上の迷走や脱落だけでも足りない。世界経済の不安定さだけでも足りない。戦争の予感は…逆の方向にはたらくかもしれない。あえて言うならばそこにグルーヴがなければいけない。距離を飛び越え、スケールを変えながら、人と人とを貫く無意識のアイディアのようなもの。かつてそれを「トレンド」と呼んでみたこともあった。


・静かに、叫ばずに、ひとつのことを少しずつ極めるような仕事をしていきたいと、そのためにはつねに、いつも、特に、時間が足りない、と思うけれども、それはきっと誰もがそう思っているのかもしれなかった。でもそれは「分業」ということで、なおかつそこに、ある価値を見出すということなのだとしたら、その分業こそが、人を小さく縛り付けているものの主要な力に関わるものなのだった。「分業を疑う」こと。それは例えばパーマカルチャーでも自給自足よいのだけれども、そうした発想には分業に対するメタ的な視点が設定されているかもしれなかった。その二項は偽の問題かもしれないけれども(分業に対してメタ的な人もまたそういったニッチな研究に邁進しているのだから)いずれにせよ、一人の気持ちの中では引き裂かれるような感じもある。メモとして。