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  映像研究

自分のこと(歴史的な、個人的な、夜中の、)

 
・いつでも、自分のことでさえも、過去を歴史のようなものとして、考えてしまうのか。例えば当てずっぽうに2005年からこちら、もう10年近くになる、そのそれぞれの1年は、その年ごとに、自分にとってあるイメージをもって思い出される。「2005年らしさ…」というふうに。しかしいまだにそれらの時間が、この現在と繋がっていることが不思議で仕方がない。まるで自分のこととは思えないような、しかしもちろん同時に、はっきりと現在に接続されているようにも思う、そういう過去のイメージがある。グラデーション的に変化しつづける、そのいくつかの色がある。そしてそういう過去のイメージが時々、ふと、全く何となく、呼び起こされることがある。その過去を考えてみれば、端的に危なっかしい。よくもやりすごすことができたな、と思う。「幸運にも」という気持ちもある。「命からがら」というような気持ちもなくはない。誰もがそうなのか。誰もが過去の自分のイメージを呼び出したならば、それを危ういと思うのか。そういえば誰もがスマートフォンなんてない世界を生きていた。そういえば考えたくないような出来事を何度も考えてしまう、それは強迫観念か、依存か、中毒なのか、そういう何かに乗っ取られたようなモードがその時にはあって、しかしそういう思考もまた、時間とともに解きほぐされていくということなのかどうか。ところで、ある範囲の時間のイメージを呼び起こすきっかけとなるようなポップ・ミュージックがある。それは例えば自分にとってはいつか記したように「2000年代の真ん中あたりのある時期」を思い起こさせる音楽としての「キリンジ」とか「宇多田ヒカル」とかがそうであるのだけれども、そういう音楽が自分の過去のイメージを、その時代の雰囲気ごと掘り起こすようなことをする一方で、しかしそれよりも何かもう少し個人的な過去のイメージに直接アクセスするようなものとして「TOMMY THE GREAT」の音楽が、ずっとあった。音楽にしかできないような記憶の呼び起こし方があるのだと思う(写真とは違う、匂いとも違う…)。渋谷の事務所に仕事でもないのにひとり泊まってインターネットをしたりテレビを見たりしていた。時々仕事もしていた。当時住んでいた荻窪/高井戸の家に帰るために井の頭線に乗って少し手前の明大前とかで降りて夜の街をずっと歩いた。その道の感じを驚くほどはっきりと覚えている。深夜にRくんとアートとアクティヴィズムの可能性について話したりもした。そういう日々の中でよく御茶の水のジャニスに行ってこういう音楽のCDを借りてきてはすっかり年季の入ったG4のマシンにコピーしていたかもしれない。それは思い出だ。その思い出は2000年代の緩やかなバブルの崩壊の寸前の思い出なのだと思う。全く恩恵がないけれどもそれ自体は文化と呼ばれるような何かを包んでいるような(いつでもそうだ/例えば今も)バブルという状態は、もちろん、勝手にはじまって勝手に終わる。しかしそれは生活している意識のようなことを確実に規定しているし、そのような何事かに規定されてなければそもそも思考を始めることすらできないのだと思う。そういえば或る批評家がいつか「どんな戦いも時代に規定される」と書いていたけれども、そういえばそのテキストを読んだのも2000年代真ん中らへんのその頃だった。その頃というのは、その書かれたテキストは当時小沢健二という人が『うさぎ!』という文章の連載を始めた、その「戦い方」について書かれたものであったから、記憶していたのだった。そしてその戦いの続きに現在があるのか?と問うてみたならば、応えは「はい、そうだと思います」になる。真夜中に考えていた事柄同士が、時間を越えて繋がるようなことがある。これはたしか2007年の光景。忘れていた過去のイメージについて。そして時間を区切らないという意味で過去を過去を考えないようにしたいことについて。そしてにも関わらず過去はやっぱり過去と考えることについて。