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  映像研究

投瓶あるいは投便

 

・201609101828。改札前のパン屋の喫茶コーナーにて、オレンジジュースを注文してノートPCのキーボードを叩いている。夕立的な局地的な雨がたった今降ってきたのだから、駅の構内には電話をする人やスマートフォンの画面を覗く人が多くいる。今日は基本的に一日休日だったのだから、散髪をして国立近美で『トーマス・ルフ展』を観てきた。移動中の電車では数日前に買った(高かった)ユベルマン『イメージが位置をとるとき』という本を読んだりしている。アメッシュで見ていると雨雲は移動せず、ずっとピンポイントで激しい雨を降らせていた。


・書くことを継続することの困難と面白さ(の再発見)。エアポケットのような時間は待っていても訪れないし、家でぼやっとしているとブラウザを見続けてしまうから、書くことは偶然のようにしか発生しない。その偶然の時間に思ったことを書いておく。それは書くことのトレーニングですらないだろう。薄まった思考のスナップショットのようなもの。あとで見返すことで何かを考えることができるだろうか。投瓶とは中に入っている手紙が重要なのか。あるいは手紙はさして重要ではなくて、瓶そのものが重要なのか。「瓶を投げる」と書いてみて、文字通り捉えればそれは火炎瓶かもしれない。


・なにかのただなかにいるとき、その「外」を考える。空間的な外と時間的な外。のっぺりとした経済圏がただ唯一あるだけだと思えば空間的な外などあり得ないし、過去も未来もまた別の「ただなか」であろうことを想像すれば時間的な外もあり得ないかもしれない。それでもそうした「外」を思い浮かべることから書かれる言葉があるのではないか。あるいはそうした「外」を思い浮かべなければ言葉を書きはじめることはできないかもしれない。そしてそれこそがこの「ただなか」からの「報告」になる。