&

  映像研究

見ることとそれに見合う言葉

 
・梅雨が明けて夏になると思い出されるいくつもの光景。7月31日は小学校の頃からの友達の誕生日だったから、子供の頃に(といっても高校生くらい)団地の隙間の公園で花火をしたこととかを思い出す。思い出す記憶は、その映像は、あるときからは自分が撮影した写真とともにある。ビッグミニで、GR1で、FUJIの安いまとめて10本ビッグカメラで売られていたISO200のフィルムで、本屋に1本500円で現像されて浮かび上がった像。そうした像とともに記憶がある。そしてその像を複製するためのフィルムという物質は、今でも家のクローゼットにあるのだろう。あるのだと思う。その気になれば(一日くらいかければ)それを探し出すこともできるのだ。団地の隙間の公園で手持ち花火をしている友人の写真のネガフィルムがどこかに存在している。しかし今は探さない。いつかそれをするのだろうか?


・もうずっと考えているのは、像が物質とともに刻まれていることの意味についてで、そのことを考えることは、物質ではない、いわゆるデジタルイメージあるいは電子的に作られたイメージについてもまた考えることになる。写真について考えること。物質的イメージについて考えること。そして「実写」について考えることもある。これは備忘録で、書かなければいけない論文のためのメモあるいは練習でもある。


・国立近代美術館の「吉増剛造展」は言葉を記すこと、しかも手で紙に何事かを記すことのあらゆる方法を見る/読むことができるということだけでなく、銀塩写真/ポラロイド/デジタルビデオ映像の質の違いを感じることもできるし、あるいはあまりちゃんと聞けなかったけどカセットテープというメディア/道具の驚異的な面白さもそこにあったのだと思う。時間があればもう一度行きたいけど難しいだろうか。


・とそこまで書いておいて、しかし、本当に、自分が、いま、どうしても見たかったのは2Fのフロアに展示されていた清野賀子という人の写真だった。10枚程度の風景写真は『the signs of life』というシリーズからのもので、その写真をずっと見てみた。そのシリーズの写真集が出た当時、自分は正直よくわからなかった。わからなかったというか、それほどぐっとこなかった。解像度(見るときの意識のセットの問題でもある)を上げたいのかそうでもないのかも微妙なところだと思ったし、スタイリッシュにしたいのかそれとも日常(?)のようなことを感じるイメージにしたいのか、わからないというような感触を持っていたのだと思う。他の何かと比較することは詰まらないことだと思いつつ、ホンマタカシ、高橋恭司、佐内正史・・・といった人たちの写す「風景」に慣れてしまった(というかそのように目の前の光景を見るようになっていた)自分としては、清野賀子という人の写真に対して引っかかりを探せなかった。探すようなものではないのかもしれないけど。


・それでその後しばらく忘れていた清野賀子という人を、『至るところで 心を集めよ 立っていよ』という写真集と、亡くなったという情報で思い出すことになる。調べたらそれは2009年のことで、それは自分が一番「フィルムのカメラ」から離れていた時期で、そのこともあって、35mmフィルムで撮影された写真は10年前くらいから送り届けられたイメージのように思えた。そしてその写真集の題「至るところで 心を集めよ 立っていよ」を見て/読んで、何とも言えない悲しいような、でも勇気づけられるような、そんな気持ちになった。そしてそれは今でもそうなのだ。そういう「力を持った言葉」というものが確かにある。そういう言葉を選び取ることと、写真を撮影することは多分似ている。しかし写真はもっと決定的だ。正しく言えば「物質的イメージは決定的である」。物質的イメージは、ある物質の姿を別の物質に「移す/写す」。その驚き、その恐ろしさ、その悲しさ、その正しさ・・・を何かの、希望の可能性として考えるならば、そこに託される言葉はこのようなものでなければならないだろう。


twitterで「清野賀子」と調べてみたならば、ある批評家の人が「今では撮ることが難しい写真」というようなことを書いていて、自分なりにそのことを思う。確かにそうなのだと思った。これは清野賀子という人の写真の力を少なく見積もることでは全く一切なく、その創造性(技術的なことも含めて)の凄さを感じた上で、しかし思うことは「あのような写真は20年前には誰もが撮ることができた」ということだ。きっと誰もが『the signs of life』のような、または『至るところで 心を集めよ 立っていよ』のような写真を撮っていた。きっと誰もが、そのような視線で何事かを見つめ、そのような視線で何事かを探し、カメラを取り出してシャッターを押していた。そうしてプリントになった写真を見て、結構いいな、とか、なんか違うな、とか、これあの人に見せたいな、とか思っていた、のではないか。


・「あの人に見せたいな」は「あの人だけに見せたいな」でもある。あるいは「誰にも見せたくないな」でもあるかもしれない。それは「共有」も「アップロード」もなかった時代の感覚なのだろう。「誰にも見せたくない」ということ。「誰にも見られたくない」ということ。しかし自分はそれを見たいのだ。自分だけが見たいのだ。自分だけがたった一人その場所でその光景を見ていたという痕跡。その痕跡を「見る/見返す」行為によって自分自身に刻み込むような感覚がある。刻まれた自分はまた別の/同じ光景を見ようとする。生活する中にそういうサイクルが生まれる。今も「カメラを持ち歩く人」にはそういう種類の感覚があるのだろうか?わからない。しかし自分にはそうした感覚は擦り減るように小さくなってしまったという気持ちがある。これは完全にノスタルジーで、メモではないテキストを書く時にはそれを別の種類の言葉で、少なくともある程度相対化して書かなければならなくなるだろう。しかしこれはメモなのだからはっきり/ぼんやり書くことができる。