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  映像研究

練習

 
・実写映像の存在論、ということを考えてみたい。現在の映像環境において「実写」という言葉が何を指し示しているか。映像がフィルムベースから磁気テープ及びデジタルデータベースとなり、ほとんどの写真が物質的なイメージであることをやめた現在において、「実写」ということがそもそもひとつのカテゴリとして成立するのだろうか。このテキストでは、そうした現在にあって、それでもなおカメラによって撮影すること、そしてカメラによって撮影された映像を見るということ、そのことが切り開く思考の領域について、その目録を作ることが目指される。


・しかしその考察は「映像メディアの記録性」についての考察とは別の軸を設定することとなる。記録性、すなわち「現実を記録すること」とは、できる限り「解釈」や「表現」であることを取り払い、そしてその手前にあって映像メディアが成す仕事に意味を見つけようとするものであるだろうが、このテキストでは、そうした意味での記録を映像メディアの中心的な事柄としてはしない。むしろ映像は、現在にあってなお巨大な問いとして立ち現れる。それは映像の発明と同じように、二つの段階を必要とする。それは「映ること」と「動くこと」である。そして両者はそれぞれの特性を綿密に調べ上げられた上で、その先において統合される。それは私たちが生きる時間を、仮想的にでこそあれ、シミュレーションするということにおいてである。


・映ること、それはある物質を別の物質に移し替えることである。ある物質がその物と認識できる形態を保つ間に、その物体よりも長く形態が保たれるであろう別の物質に移し替えられる。その判断と選択を行うのは人間である。バルトが書いた(残した)「それは-かつて-あった」はこうした時間の中で十全に理解される。イメージによって残された物は、つねに、いつも、もう既に存在しない物のイメージなのだ。写真、すなわち物質的イメージは、それゆえ死と、消失と、紛失と、分解と、消滅と、ともにある。化学反応はいつも有機的なものだ。集合した物質はいつか解散する/解放されるのだから。