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  映像研究

時間と場所を

 
・私に少しだけ与えてくださいと願う月曜日の午前中。初台の職場の近くにあるカフェ的なスペースでノートPCを開いて文章を書くための準備をするだろう。そのために少しだけ早く起床するだろう。それは去年の今頃のトライを思い出させる。これまで数年の間にあった(はずの)時間と場所のことを思い出させる。多くの場合それは朝の、午後の、夕方の、喫茶店、カフェ、ファミリーレストランあるいは図書館。そうした時間と場所で少しずつ言葉を書く。誰に頼まれたわけでもなく、誰からも期待されていないことを、確認しながら、しかしだからこそ自分がまずは楽しむことを気持ちの支えにして。素直に書く。これは宣伝のための言葉ではない。これはコミュニケーションの言葉ではない。これは・・・と思いながら、書き、読むことを続ける。穏やかなステートメントとして。


・土曜日に『万引き家族』を観てきて、すっかりやられてしまった。もしも自分が10代後半だったならば、この映画を自分の(さし当りの)唯一の指針としながら「一生に一度は映画を撮りたいものだ」と思ったかもしれない。それは今からでも良いのだが、それはそれとして自分にはさしあたりその余裕はない。でも開かれた気持ちでこの映画のことを思うとき自分は「映画で見たいものがここにあり」「ゆえに自分もそのような仕事をしたい」と思う。自分にとってあの映画にカタルシスはなかった。熱狂もない。何かの気持ちにすっかり乗っ取られるというようなことが起こらない。そうだったらもっと単純だったのに。けれども単純なことは別の何かで代替できるのだ。もっとわからない、わからないがゆえに引き受けざるを得ない種類の経験のために映画はあるのかもしれないのだった。普通の映画だ。普通に技術や方法が試され練られている。何か映画以外の物事を考えたり実践したりする上で手本にしたいと思うが、それがどういうことになるのかわからない。人間はなぜ顔や表情といったものと付き合い続けなければいけないのだろう。そのことは豊かであることに違いはないが、今はそのことに畏れを思う。「家族」について思うことや考えることはある。しかしそれはそれとして、関係性や設定を紹介する上での「テーマ」はさして重要なことではない。


・業務でも労働でもなく「仕事」、その仕事すらある一人の人にとっては表面のようなものでしかない。(もちろん表面/深層という概念を信じきるのでもなく、あるいは表面であるから重要ではないなどということもなく。)しかしその仕事から見ることができるものがあまりにも多い。この数年考えてきたことは、そのことに圧倒的されるということである。一人の人が生きていることが圧倒的であること。言葉を失うこと。しかも多くの人がそれを知りながらそれでも何事かを表現していること。そのことに圧倒されるとき、自分はある一部分だけを細く脆く延ばしてきたようなイメージを持つ。反省するようなことではないと思うし、人はそもそも限られた時間と場所からしか考えることができないという開き直りのようなことも思いつつ、あるいはこうして圧倒されることができる(?)ことを幸福であるとさえ思うけれども、それでも同時に「ここにもまた取り返しがつかないような重要なことがある」と思う。


・文学や映画によって二重化される。人は辛うじて何事かを考えることができる。思うことができる。リアリティ・ショーばかりだと思う。どんな文学や映画もコンテンツとして捉えたならば、それはリアリティ・ショーの全体に飲み込まれてしまうように思う。もっと距離を。その距離/二重化が必要であるということは自分自身が現在考えていることであって、だからそれはこうして緩やかに関係している。物語を批判する人は「すべてはリアリティ・ショーである/でしかない」という強力な無意識の諦めの中で生きている。いや、それは自分の時間と場所から見た光景でしかない。「無意識の諦め」はもっと慎重に分析されなければいけないのだろう。けれどもこれがメモ、備忘録である限りにおいて、そうした予感をかたちにすることは許されているのだと考える。本当はいつでも多くのことが許されているのだけれども。


・201806181154。ここは具体的な場所であり時間であり、それは準備するための、自分が言葉によって二重化するための、二重化について考えるための場所であり時間であるけれども、いま考えていることは、具体的な場所/時間からどうやって思考、概念を生み出すことができるのか、というようなことでもある。