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  映像研究

ダーク

 
・去年から気になって一部分だけ読んでいた『ダーク・ドゥルーズ』を読む。「つながり至上主義」と名指されている敵(仮想敵?)については、そのモチベーションは大いに理解できる。できるように思う。つながり至上主義、において、きっと誰もが即座にリアクションがあることを当然のことだと思っている。どれほど実のないつぶやきでも2人くらいは反応してくれると思っている。ちょっと気の利いたことを言えば10人くらいからコメントがやってくると思っている。コメントがやってくれば嬉しい。嬉しいから書く。しかしそこに襞はない。フラットな面しかない。表面はあるが表象ではない(ボードリヤール)。何度でも立ち返って驚いた方が良いと思うのは、テキストにリンクが貼られるということだ。しかも単語単位でそれがリンクでもあるということだ。ちょうど10年前にこの、はてなのテキストを初めて書いてみたときにともかくそのことに驚いて、そして今でも時々驚いている。しかし同時に今となっては、そのことが決して新しくなく、むしろすっかり忘れ去られた形式だということの方に驚く。例えば総理大臣に対して批判的なコメントを発表したいと思ってテキストに総理大臣の名前を書いてみても、それはその総理大臣を(一応)公正中立風に紹介しているページに飛ばされてしまうというそのシステムによって、多分人は何かを考える上での重要な足場を切り崩されたのではないか。批判は成り立たない。批判として書いたテキストは単語/タグに変換され、すべてが広告/データになる。批判を書いても広告になり、固有名の数が財になる。検索数資本主義と生成変化資本主義が同時に進行する。確かにそのどちらもが「リゾーム的」であるかもしれない。固有名が財ならば炎上商法こそが正攻法になって、炎上と鎮火のタイミングだけが重要になるため、人間の情動は計算され平均化される。いま怒るべきか怒ることをやめるべきかもつねに平均的であらねばならないと誰もが思っている。そしてそういうすべてが馬鹿らしいと思ってテキストを書くことをやめれば、私の存在は静かに(少し)消える。日々自身の広告を打ち続ける人を横目にそのことに疲れてしまったのならば、そのアリーナからは退出しなければいけないのだろう。そうして批判的な言説は消滅する。怒りも消滅する。自分の書いている文章がデータの集積になるだけで、人間のある部分、ある傾向、ある衝動が消滅するような気がしてならない。たとえばこのテキストにしても、まったく切り離されているのではない。瓶として投げている。瓶として?そう書いてみて、やはりネットのテキストは瓶とは違うと思うのは、自分がもう20年も前には、ノートに言葉や文章を書くことを日常としていたからかもしれない。アップロードするはずのない、誰にも読まれることのないテキストというあり方がかつてあり得た。言葉はわかりやすいが、同様にイメージ(写真)においてもそういう状況があり得た。本当に思うことは全員しばらく黙った方がよいんじゃないかということで、そんなことをテキストに書くことは完全に矛盾しているが、しかし例えば一ヶ月誰もが近況をツイートもせず、インスタにもアップせず、フェイスブックも更新しないからいいね!も押さずに過ごせば、この経済は少しは壊れるだろう。資本主義を別様に変化させたい人も、過剰な経済追求が気持ち悪いと思っている人もいるのに、近況を更新することで現経済に寄与することについては受け入れているように思える。あるいは一企業のサーヴィスを使うことの不本意と、自分のメッセージを知人友人に届けることの利益を天秤にかけた結果、後者を選び取っているということなのかもしれない。しかし本当にそうなのか?権力はある層の人たちに対しては抑圧など一切していない。疎外というタームもまったく関係ない。権力は包摂し、表現と創造を促している。天邪鬼なのかもしれないけど、どうにもそのことが(囲い込まれて表現と創造を強制されることが)気持ち悪いのだし、同時に、そう考えていて気がついたことは、表現とか創造を、もっとなにか大きな、力のある、破壊的なものだと自分は考えているということだ。あるいはもっと素朴に、「いつ、どこで、なにをするかは、自分が決める」「誰かに命令されてなにかをすることはしたくない」ということかもしれない。なぜ楽しくもないのに楽しそうにしなければいけないのか。なぜ楽しそうにすることを命令されるのか(「スマイル0円」はグローバル・スタンダードになった/それは物心とともにインストールされている)。(これは、これを書いている自分が「何かを作ることを命令している職に就いている」その取り返せないかもしれない自戒を込めて。)そこで一度冷静になって、ボイコット、や、サボタージュ、という言葉が意味するような行為を想像してみる。完全に自足した楽しみのイメージをもう一度自分の中に入れてみたならば(そして可能であれば自分がそれを見る/知るために表現/アウトプットをしてみて)、それが襞的なものになるかもしれない。例えばかつて自分が「電波の届かないところ=山」に何かの可能性を感じていたのは、そういう部分もあったかもしれない。常時接続に対して切断と孤立。『ダーク・ドゥルーズ』を読んだことから考えた。中断。