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  映像研究

テキストを書かなくてはいけない

 
・病める時も健やかなる時も(大抵健やかだ)、そして普通に生活している時こそ、テキストを書かなくてはいけない、と思う今日この頃。ソーシャルなネットワークに接続されているとかいないとか、紙であるとかデータであるとか、そうした様々な事柄はさておいても、まずはテキストを書かなくてはいけない。もったいぶったふうにしていると平気で一ヶ月くらいすぎてしまう(実際に前回の投稿はちょうど一ヶ月前だった)。だからさしあたって書く。書くことで初めて考えることが始まるのだった。


・たとえば思い返したときに「just do it」と言ってみて、多くの人が実際にそうしていることがわかるのは、ネットワークに書かれた言葉やテキストも、その多くが「ただやっている」結果でしかないからだ。「ただやっている」ことに対して、その「ただやっている」ことを相対化するような、時評のようなことを書いているのもつまらないと感じてしまうのはどういうことなのか。それが世の中の「モード」あるいは「トレンド」ということなのか。言葉を「○○のための言葉」ではなく、ただ言葉にするような意識があるように思う。端的に、必要と結びついた、ただの言葉。あるいはただのメッセージ。


・端的な、必要な言葉と言えば、ここに語学を勉強することへの興味を突き合わせてみるのはどうだろう。同僚から英語の勉強法についてアドバイスをもらったならば、可能な限りそれをなるべく早く実行する。英語を勉強すると決めた。結果的に2014年あるいは2014年度は完全にさぼっていたあるいは怠けていた。それをもう一度再起動させようとする。毎日やろう。そういう「楽しいこと」とは違ったこととしての学ぶことを(再びあるいは三たび…)始めてしまった。


・目が覚めている間は他の何事もしないでただひたすら読むべき本を読んでいたとしても、絶対的に時間が足りない。そこで「有限と無限について」考える時間もまた省略されなければいけない。そしてそういうテキストの読み方をしているとしかし、読んだ本の内容は読んだそばから忘れてしまうかもしれない。だから一つには「声に出す」、そしてまた一つには「手を使って(手書きあるいはデータで)書き写す」、そしてもう一つにはその言葉を「使う」必要がある。使う、と言ったときその意味は大きくふたつあるのではないか。一方は「考えるために使う=引用して別の文章を作る」、そしてもう一方は「誰かに伝える=話す」、そしてそのどちらともに「そのテキストを生きる」ということが関わる。