&

  映像研究

1995年の3月20日からちょうど20年経った

 
・3月11日とともに、3月11日とは違った意味で、3月20日という日付に特別な気持ちがある。1995年は通っていた中学校の卒業式で、そのちょうど自分の卒業式の日に「地下鉄サリン事件」が起こった。ある特定の時間を覚えていようとする。たとえば「墓参り」のような行事もまたそのような意味があるのだなと考えたのは、お彼岸が近かったからだ。彼岸。


・同時に2007年の3月20日にふと思い立って「&&&…」と言ってみてこの備忘録を始めたこともまた、同じ日付に重ねて焼き付けられる。日付という概念?単位?それ自体が面白い。同じ誕生日の人を見つけると嬉しくなるし、今日は何の日?というふうに過去の出来事の日付を知ることもどうしてか面白い。それは線としての時間にとっては意味がないことのはずなのだけれども。


・スーパーで菜花を買い、家族から菜花をいただき、友人の農園に注文していた野菜セットにもたくさんの菜花が詰められていたものだから、嬉しくて気温が上がりそうなほど家に菜花がある。「帰ってきてから茹でよう」と思っていたら、そのたった数時間の間に花が咲きかけていたりすると、その変化に驚く。「その力はなんだ?」あるいは「たった数時間」と思っているのはこちら側の時間に対する勝手な考えで、植物は全然別の変化の中を生きている。地面から切り離されても生きている。そのことの不思議に出会う。


・春眠は暁を覚えないけれども、多少なりとも睡眠時間を削らないとどういうこともできそうにない、そのことを痛感した2014年度がもうすぐ終わる。そうして2015年度が始まったならば、また少しずつ環境が変わる。そのための準備を相当にしなければいけない。誰もが普通に言いそうなことだけれども「たとえば2007年の今頃はもう少し呑気だったなぁ」と思う。呑気とは何か。それは「時間があったらやりたいことリスト」のようなものが黙っていても出来上がることだ。呑気とともにいなければできないこともある。


・そうした自分の変化について思う。微細な環境の変化に注意をすることは、同時に自分自身の変化に対しては特に考えないということの別の一面でもあったのかもしれない。このような全く別の考えと別の言葉が生まれる。それは全く普通のことで、普通であるということは同時に「スタイル」と共存することができない。素材のようなものだから、スタイルに隠されてしまう。では「スタイル」はタグのようにリンクのきっかけになるとして、スタイルのない(ように今のところ思える)考えや言葉は、どのように他者に届けられる可能性があるのか。これは一つの問題。


・「just do it」という姿勢は大切で(大切な時もあって)ある意味では新しいことを始めるときには誰もが目の前のその事柄に関して「やるんだからやる」というような、飛び込むような気持ちで、実際に飛び込んでいく。その凄さ。「政治」と呼ばれる力がその凄さを遠ざけることもあるということをよく知っておくこと。その「政治」は制度ではなく「意識」の中にある。意識の中の政治が何かに飛び込む時の気持ちを失わせてしまわないように。