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  映像研究

春のうちに

・202003071709。業務を終えて職場の近くのエクセルシオールにて。家族と合流するタイミングをうかがいながら、読書、勉強、日記、のための隙間の時間を作ってみる。

 

・移動中に読んでいるのは諏訪敦彦『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために』で、昨日も寝る直前ギリギリまで読んでいた。ざっと500ページあるが、終わって欲しくないと思いながら読む。それが映画監督であるとか作家であるということは別にして、一人の人が数十年に渡って「映像」「映画」という存在について考えてきたことに触れることができることが有り難い。読むことでその道を想像しながら、自分はそのやさしさよりも厳しさや険しさの方に意識を向けるようにして受け取った。同時にこの本に挙げられる、様々な時代に、様々な場所で、様々な人によって作られた映画を見てみたいと思う。そういう本を読みながら考える幸福。

 

・「他者」という語が出されていたならば、つい自分の興味関心に引き付けて考えてしまう。この本に書かれる「他者」は主には役者または映画を作る制作者たちを指すだろう。あるいは映画制作の場面において、その手前にあってそれを構想する段階での、コミュニケーションにおける、人と人との関係の基盤を描写する言葉かもしれない。自分が写真について考えているときに読む、例えばボードリヤールのテキストにおいて概念として提示されている「他者」とは、意味が異なるのであろう。「他者」あるいは「他者性」という語の幅について考えてみることもできる。

 

・佐藤真の名が挙げられていて、そこから自分は数日前に思い出した牛腸茂雄の晩年の仕事『見慣れた街の中で』のことを考える。牛腸茂雄ポートレートには『SELF AND OTHERS』という題がつけられていて、確かにそのレンズを向ける者を見つめ返すような写真に映る者の存在から、写真を見る人は「自己と他者(という訳語が適切なのかわからない)」という言葉を引き寄せる。しかしまた『見慣れた街の中で』のカラーフィルムで映された光景からも「自己と他者」とりわけ他者の他者である所以のようなことを考えさせられる。あれらの写真と、例えば清野賀子の後期の仕事『至るところで 心を集めよ 立っていよ』の写真群は、どのように響くか。

 

・「撮影するとはどういうことか」、もう少し粘って考えを進めておきたい、春。