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  映像研究

許された事

 
・「わたしたちに許された特別な時間の終わり」という言葉は、元々はチェルフィッチュの演劇の題名だったものが、最近上映されている映画の題名にもなっている。あらためてその言葉を面白い言葉だと思う。その言葉はどこか「わたしたち」を遠くから見つめているような感じがする。そして「わたしたち」を「許している」あるいは「許さなかったりもする」ような何か(誰か?)をふと思い描くような作用もあるし、一方で「特別な時間」は区切られた、ある任意の時間の範囲を示しているように思われる。「許された時間」は終わる。「特別な時間」も終わる。でもすべての時間はそもそも終わる(?)。任意の時間を「ある時間」として指し示そうとしたならば、終わる。そういう意味では「わたしたちに許された特別な時間の終わり」はなんであっても、いつであっても、そうなのだとも思える。就学している期間も、勤労している期間も、家族があるメンバーで暮らす期間も、恋愛関係にある期間も、あるお店に足しげく通っている期間も、それらをひとまとめにした「人が生きている」期間も、考えようによっては「わたしたちに許された特別な時間の終わり」かもしれない。あるいはそれは少し優しい。それでもやはり「許す」「許される」「許された」という言葉にはまた違った強い響きがある。それが一般的に思われるような宗教的な考えを思い起こすからなのかどうか。この考えには特に行き着くところがない。


・全然別の話。木曜日にぽっかりあいた休日があって、家族とともに車でアウトレットに向っていた途中に、まったく何も考えずに(時間のこととか)福生に立ち寄ったならば、古道具屋を見る。そこにおそらくは「乾板写真」と言われる物だと思われる(調査中)ガラス板状の古い写真があった。紙焼きの古い写真はたとえばフリーマーケットであればそれを見ることは珍しくないし、探せば今の家や実家にも似たような物があるとおもうけれども、そのような物はほとんど手にする機会がなかった。それを見たのはたとえば数年前の「六本木クロッシング」の展示だったかもしれない。完全に衝動的に購入してしまった。その写真には人物が写っている。男性がポーズをとって写っている。数十年前の、あるいはもしかすると100年くらい前の、光景が写し取られた物体が家にやってきた。そしてその物体は存在する限り時間について何かを考えさせ続けるかもしれない。データではない「乾板写真」は紙でもないので破れもしない。いつかは割れる。割れるまではイメージを示し続ける。物体は凄い。


・台風がやってきている10月最初の日曜日の朝、いつもの業務とは違う役割のために、いつもとは違うバスといつもとは違う電車に乗り、町田に着いた。早く着きすぎたのだからドトール。「わたしたちに許された特別な時間」を記す。