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  映像研究

ノスタルジー(全面的な/個人的な/メディア的な)

 
七尾旅人という人の音楽『サーカス・ナイト』という曲を聴いている。数日前にtwitterのTLのその音楽の情報とリンク先のURLが流れてきたならば、それをクリックして聴く。youtubeだ。音楽が流れ始めたならばそれを聴く。部屋で聴く。PCで聴く。何回か聴く。そういえばその曲を初めて聴いたのは、去年の5月に熊本のゼロセンターという場所で演奏をしていたときに、それをUSTREAMで観たときだろうか。そのようにして音楽を知る。そのようにして音楽を知ることについても思う。そのようにして知った音楽と別のかたちで出会い直す。そういえばそのときから時間も流れた。そういえば一年以上が流れた。


・その曲にときめきながら、歌詞の意味を思ったり、メロディの変化に何とも言えない良い気持ちになったり、リズムに身体を揺らせたり、もちろんそれらを分けることができないような感じを知ったりしている。そしてそういう感覚が自分にとって久しぶりかもしれないことを思い出した。久しぶりに音楽を聴いた。久しぶりに集中して音楽を聴いた。録音されている音楽を集中して聴くことがなくなったのかもしれない。それはなぜだろう。それは個人的な理由かもしれない。ipodが壊れてしまった。imacに入っていた音楽が消えてしまった。CDが部屋のどこにあるのかわからなくなってしまった。JANISに行かなくなってしまった。家ではpodcastで人が話しているのを聞くことが多い。あるいは文章を読んでいることが多い。何かの。


・それで音楽だった。それがポップ・ミュージックだったならば、歌詞カードを読みながら聴きたい。歌詞カードを読みながらヘッドフォンで聴きたい。かつて毎日のようにそういうふうに音楽を聴いていた頃があった。部屋の扉をノックされても気づかないくらい(ご飯できたよ!)集中して音楽を聴いていた時もあった。あのような時間は、誰にでも、10代の頃だけに、許された、特別な時間だったということなのか、どうなのか。歌われる歌の、言葉が、自分にとって特別な意味を持っていたような気がした。実際にそうだった。歌が特別な意味を持っていた。その歌の、その言葉の、意味を知りたいと思って、自分も歌う。自分で歌う。部屋で、道で、教室で、箱状の歌唱施設で歌う。あれは音楽だったのか。音楽はいつも過去と結びつく。


・今音楽を聴いたならば、それはyoutubeで、音楽とともに映像が流れる。プロモーション・ビデオと呼ばれる映像、あるいはミュージック・クリップと呼ばれるような映像が流れる。あるいは誰かがアップロードした映像や写真とともに音楽を聴く。音楽とともに映像を観るだろう。そしてその隣には誰かによって「関連がある」とされた音楽も並ぶ。「関連している」と言うのだから、それは確かに関連しているのだと思う。関連の束に突入する。それも豊かな体験かもしれない。その体験と「歌詞カードを読みながら聴く体験」を比較して、どちらが豊かな体験かと考えるのは意味のないことかもしれない。意味のないことなのだろうか。意味があるかどうかはさておきそれはそれだ。それぞれの体験なのだと思う。


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・テクノロジーと感触、あるいは(あくまでも主観的な)「豊かさ」について考えたときに思い出すことは、写真についてのこと。90年代後半から2000年をまたいでずっとフィルムで写真を撮ってきたけれども、ある時期街の本屋とかの「0円プリント」がなくなり、そしてプリントの質が変わった。写真屋さんで働いていた友達に聞いたら「もう、すべてプリンタでプリントしている」ということだった。それは写真なのか?と思うと不思議な気持ちになる。毎日100円くらいの36枚撮りフィルムをビッグミニ的なカメラに入れて、日々の生活を写したならば、高校の最寄り駅の近くのディスカウント・ショップに現像に出す。500円もしないで翌日にはプリントが上がってきた。それを無印良品のアルバムに整理しておく。そういう日々があった。何かの拍子に人に見せる。それもまた楽しかった。


・テクノロジーはコンテンツとは別に、ある感触を与えているのだと思う。それを知るのはいつもそれが失われた後になってからで、そのようにして人は三丁目の何かのような昭和レトロ的なマインドに心を持っていかれる。持っていかれるのも良いし、持っていかれないのも良いのだと思う。ただ「持っていかれない」と思っている人は逆の方向に強力に引っ張られているということを、その力は「合理性」及び「速度」だということを、つねに考えなくてはいけない。その上で、何かを買ったり、何かを売ったり、何かを捨てたりするしかない。何かに拘ったり、何かを拾ったり、何かの埃を払ったり、何かを押し入れの奥から出してきたりするしかない。


・懐かしいということが懐かしい。「はい、撮るよー」と言って子供にカメラを向けてシャッターを押し、押したと同時に子供は駆け寄ってきてカメラの裏側を覗き込む。そして「今撮った写真見せて」と言うだろう。子供でなくても言うだろう。誰もが「今/撮った/写真を/見せろ」と訴えるだろう。しかし見ることはできない。なぜならこれはフィルムカメラだからです。フィルムカメラは過去のイメージを物体にする装置なのです。いつか「懐かしい」と思う頃に、過去のイメージは写真という物体として目の前に再来するのです。それはつまらないことなのですか。「面白いけど役には立たないかもしれないね。」


・フィルムはいつまで経っても現像されないこともある。そしてそのほとんどは「失敗」しているだろう。失敗を宿命づけられている。「成功」という概念がない。見たものは映っていない。写したものは映っていない。そもそも本当にそのカメラにフィルムが入っていたのかどうかすら怪しい。過去のイメージはずっと彷徨い続ける。