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  映像研究

遠くと近く

 
・しばらく「遠い時間」について考えていたかもしれない。具体的な過去や、具体的な未知について考えるというよりは、むしろ「遠い時間」とただ言葉にしてみて、そのことから何を考えることができるか。問いがある。問いを立てることあるいは仮説を立てることだけが楽しかった。問いを立てることあるいは仮説を立てることだけが僕らを悩めるときにも未来の世界へ連れて行くのかもしれない。そういえばこの前ふと考えたことは、90年代後半以来いっこうに使うことができなかった主語「僕ら」がしばらくぶりに解禁になっているのではないかというふうに思う、これはトレンドに関する感覚。「遠い時間」についてだった。「遠い時間」について考えることについてだった。それはあまりにも目の前の色々なことが馬鹿馬鹿しいと思うからに違いなく、それはあまりにも目の前の色々なことが崩れていくように感じられるときに、ではいったい何ができるのか?と考えることと関係がある。さらにそのような思考のモードと「僕ら」にも少し関係がある(ように思う)。


・「戦争」についてだった。どうしてもこの一年くらい考えてしまうことは、様々な人との関係が緊張感を増して、様々な人と人との繋がりが「組織」のようなものになり、様々な集団は敵対的になる。そして「それも仕方ないのかな」と思う。「みんなでなかよくやる段階は終わったのかな」とか思う。競争もする。疑心暗鬼になる。命令が下される。「命令」という言葉が存在しなかった空間にはじめて「命令」が下される時の気持ち。どのようなレベルの事柄であれ、そのような変化の最中の「気持ち」を覚えておいた方がいいだろうと思う。さらに速度が制御される。温度が管理される。範囲が定められる。力が見える。突然姿を消す物体があり、突然姿を消す人がいる。物体が少し浮遊する。今まで床にしっかりと置かれていた物体が少し浮いているように感じられるかもしれない。それはなぜか。


・「フレキシヴィリティ」という語の中心には、人間動物の「可塑性」という性質がある。臨機応変さや柔軟さ、そういったあり方は道具あるいは機械さらにいえばコンピュータの本質と親和性があると思われていたかもしれないけれども、でもコンピュータをプログラムし直すよりも、人間を「そのように」動かせた方が、適切にはたらき、精度も高く、目的を果たせるから利益に繋がる。資本を大きくすることが可能であるとか。人間はコンピュータよりもなめらかで、人間はコンピュータよりも「人にやさしい」。思わず人にやさしくしてしまったりする。いくら「私たちはそれ相応の金額で飛行機を飛ばしているので機内でのサーヴィスはいっさいしません」と言ってみても、目の前で転んでしまった人には思わず手を差し伸べるに違いない。その「思わず」つまり意識の活動によるのではない行為、それを「認知」とかあるいは「反射」と呼ぶこともできるのか、そういった行為が資本を大きくする。そのことと、物体が少し浮いているように感じられるかもしれないことには、どういう関係があるか。それは自分の近くで起きていることである。


・家のすぐ近くに道路が造られる工事が進む。去年の今ならば田んぼ(棚田)であった場所に、巨大な橋桁のようなものが現れた時の驚き。どのような意味に属する事柄であれ、そのような変化の最中の「驚き」を覚えておいた方がいいだろうと思う。ピラミッド…と少し思った。そして木が切られる。木が生えていては道路も通せないし、その道路が向う先である「住宅」も建てることができない。道路も住宅も造ることができないのはどうやら困ったことらしくて、困るから木は切る。お稲荷さんは丸見えになる。その光景は人を「ぎょっとさせる」。ぎょっとするよ。休日の昼間ドアがノックされて「窓から見える雑木林そろそろ切ります」と言われる。自分は信仰も何もないけれども、少しだけ「気をつけた方がいいと思いますよ」と言いたくなってしまうのは、木が結構そんなに簡単に扱えるものだとどうしても思えないからだ。とりわけ背が高かったり幹が太かったりする「古木」的なニュアンスのそれは、植物であると同時に/植物であることそれ自体によって、何かそれ以上の存在である。あるいはその木を切る人もそのことはわかっているだろう(希望的観測)。木を切る人も、工事を進める人も、もしかすると原子力発電所の運転に関わる人も、わかっていて、けれども「それは知っています」と言うのかもしれない。


・木についてだった。ピラミッドは墓で、お稲荷さんは古くからある宗教施設で、木は木であると同時に、もう少し微妙なニュアンスで存在している。確か鷲田清一さんがエッセイの中で「古木と神社と場末」の3つが「世界がぽっかり口を開けている場」だと書いていた。かつてあったそのような場が失われることで人がどのように変化するのか。もちろん誰もわからない。「場末」はそれこそ「サブカルチャー」と関係がある。「逸脱」や「マイノリティ」あるいは「マレビト」とも関係がある。そしてあらゆるところに木は立っていて、山に行けば太く大きな木を見ることも触ることもできるだろう。それらは「パワースポット」とか呼ばれるのか。「パワー」は特にない。パワー以前の問題だ。パワーは労働の現場に行き交っている。そんなに「パワー」が欲しいなら企業にいくらでもある。木は「パワー」とは別の何かだ。「世界がぽっかり口を…」という言葉がもっとも適切なのかどうか分からないけれども、木は「遠い時間」についての何かで、たとえば木は「遠い時間」についての栞のような存在かもしれない。世界のあらゆる場所に栞が挿んであるのか。抜けないはずの栞を引き抜くと、その本のどこを読んでいるのかわからなくなってしまう。ポストイットとアンダーラインだらけの本を手にして、それらをすっかり消し去って「買ったままの」状態にすることもできるかもしれない。「買ったままの」状態は転売の可能性を生む。


・「遠い時間」について考えていたかもしれない。木は生えるように生えていつか倒れる。ピラミッドはかなり長い時間その場所にある。あらゆる企業はいつか崩れ倒れるだろう。木を倒すことにも強大なパワーが必要になる。力それ自体は一貫して目には見えない。