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  映像研究

10月になった

 
・10月になる。季節はめぐり夏からずっと金曜の夜が楽しみだったNHKの『ニッポン戦後サブカルチャー史』は昨日で最終回。良い番組だった。「サブカルチャー」の対抗的な意義に最後まできっちりと軸足を置きながらいくつもの作品を貫くように線を引く。時代ごとの「中心」を仮設して、それに対する「サブカルチャー」の発生に焦点を合わせる。「マイノリティ」と「逸脱」という語を「文化」や「表現」の要件として位置づける。そして2000年代以降である「現在」を規定しているのは「(現代的な)貧困」であるとする課題を提示する。そういう仕事を国営放送であるところの番組が放送したのだということにぐっときた。それにしても風間くんは生徒として優秀すぎる。「マイノリティ」や「逸脱」について語る彼を見ていると、かつて「十代の心の闇」のようなものを演じきった「兼末健次郎」が重なり合い、時空を超えて(芝居と現実を越えて)意味の分からない感慨すらある。勝手な想像だけれども、彼があのような番組で、あのような言葉を、あのように語ることができるということには、少なからず「兼末健次郎」を演じたことが影響しているのじゃないかと思ったりしないこともない。「演じる」ということは人にどのような影響を与えるのか。


・また別の/同じ、2000年代以降である「現在」を規定している「(現代的な)貧困」について。『現代思想』の新しい号を「大学崩壊」という特集のタイトルに引かれて図書館で手に取ってみた。前半の國分さんと白井さんの対談での「仕事をしているフリをしたいのではなくて、仕事をしたいのだ」というやり取りにも「なるほどそうだよな」と思いながら、後半の「大学非常勤講師について」の対談も興味深い。「『講師』というと専任の教員と変わらないように思われるが、実態は『非正規労働者』そのものである」というような意見も確かにその通りであると思う。あるいは「大学は『教育機関』ではない。『研究機関』である」というような文言は、現在成立できるのか。そういえば自分も週の数日は予備校と呼ばれるような場所へ行き、去年は高校へ、今年は大学へ、その都度いろいろな業務のために行く。そういう自分にとってその対談で語られていることは、現実的な事柄としても、あるいはもう少し「理念」のようなことに関わることとしても、考える手がかりが沢山ある。


・一方でハンナ・アーレントについてもう少し色々知りたいと思って図書館で『ハンナ・アーレント入門』というそのままのタイトルの本を借りてくる。そういえば一昨年を通じて開催していた読書会では「労働」が大きなテーマの一つであった。そのときにちらっとだけ触れたアーレントの「労働」「仕事」「活動」という三区分をもう一度思い出してみる。それは時代に対応した区分(だけ)ではないし、ひとつの「職」の中にも混在しているようなカテゴリである。そしてその区分のなかで「物」や「場所」と「社会」「国家」「世界」との関係を問い直すということが山本理顕さんのテキストでも問題とされていた。あるいはアーレントの「全体主義」に対する批判あるいは警鐘、そういった言葉を、同じ時代にベンヤミンファシズムに対して紡いだ言葉の隣に並べてみることもできる。それは「抵抗」であり「対抗」であるけれども、それを知って、そこに学び、では現在の状況にどのような接続を考えることができるか。100年前に戻って、80年前あたりをさまよう(パサージュ)。『パサージュ論』を『ヨーロッパ戦前サブカルチャー史』として読むこともできるのか、というこれは当てにならない思いつきかもしれない。