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  映像研究

24年

・201903201232。午前中寝坊して約束を飛ばしてしまった。反省して。

 

・3月20日は自分にとって特別な点である。1995年の3月20日のことをいつも思い出す。中学校の卒業式だった。24年前。12年前に「地下鉄サリン事件と中学校の卒業式から12年が経ったこの日から日記を書き始めてみよう」と「そして、」と考えたのは12年前の2007年の3月20日、つまり今日だった。季節は巡るし時間も巡る考え方も素晴らしいと思いながら、自分にとって時間は消える。しかし造形することはできる。想像することも。想像で造形することもできる。過去は望遠レンズで見た遠景のようにあらゆる時間の層が圧縮された一つのイメージとして見る。西新宿のビル群にむしろ富士山が迫り来るようにしてある過去の対象が強烈な像として浮かぶ。近づいてくるように感じる。「風化させない」と誰もが何かの対象を何度も描きなおすだろう。自分にとって1995年の3月20日は、特別な点であると同時に、そのように過去を強烈な像として描き直すことを思い出させる。そしてそれは毎年やってくる。

 

・3月20日は年度の区切れ目でもあるから、何らかの教育機関と関わっている(結果的に関わり続けている)自分のような人間にとっては、去年の3月20日は、一昨年の3月20日は・・・と遡ることもできる。いつも明るい日差し、三寒四温の寒だか温だかに翻弄されている。何を着たら良いのだろうか。新しい教室で最初に言葉を発する時はいつも緊張する。そのことも尊いことだと最近思うようになった。聞いている側は緊張しつつもかったるそうにしていたりすることも含めて、素敵な時間だと思えるようになる。正月よりも初めてらしくキラキラ、バチバチしている。5月の連休を過ぎると次第に「日常」のようなことにすっかり飲み込まれて、過去の像の端役として消え去っていくのだけれども。

 

・24年と12年はちょうど半分であることを考える。1995年と2007年と2019年。任意の点を取り出すことができるのも「日付」という発想があるからだ。それは面白い。本来は消え去っていくだけの時間が、雪玉のように、あるいはバームクーヘンのように、つまり年輪のように、重なり厚みを獲得するものとしてイメージされる。回転しながら。「プレイバック」も「タイムマシン」も、時間を飛び越えることは、とりわけ過去に遡ることには回転のイメージが関わる。「巻き戻す」、それはテープのような帯状の何かとしてイメージされる。帯だから巻き取って物体化させてみたいと思うが(絵巻物)、巻かれず放置される帯状のものもあるだろう。開かれなくなって忘れられたプレミアのファイル。硬く変形しない金属状の物体が適当な長さで散らばっている。それは帯ではない。巻くこともできない。2018年、2017年、2016年、2015年、2014年、2013年、2012年2011年2010年2009年2008年2007年、どれもあっという間にアクセスできるそれは金属の物体、ディスクだった。ところで自分の実際はさておき一般的な印象として15歳から27歳も大変そうだが色々とあるのだろう。27歳から39歳はこれもまた大変そうだが色々ありそうだ。39歳から51歳はさらに大変そうだが途方もない。未知。知らなかったことを知るのだろう。それは楽しいことだろうか。

 

・反省と卑屈になることを切り離す。強く結ばれているように思える思考と感情を切り離すことを他者ならばできる。自分でも工夫するとできる。視点を与える。

 

・写真について考えることが止まっている。読んではいるのですけれども。最近タイムラインに現れた言説(の断片)は「いまどきインデクスとかベタに言う人はいないでしょう」とかいうもので、もちろんそれは自分に向けられた言葉ではないのだけれども、それを自分に向けられた言葉として受け取るのはソーシャル・ネットワークに付き纏う悪癖だとして、そうか、ベタなのか、というか自分はベタにインデクス、とか言ってるのか、でも、ベタに、ってどういうことなんだろう、と考える。フィルムの物質性と表象におけるインデクス=記号性と言って、確かにそれは70年代以降の美術/メディアの言説として基本であるがゆえに有り触れているのだし、デジタルイメージ以降は相対化される。だし「デジタルイメージ」と言わずとも、放送や電波のことを考えれば「データ」ということを総て、物体と現象による楽譜と演奏のようなものとして考えることもできる(グロイス)。だけれどもそれで話が終わってもなお、現実の光景がレンズを通して映り、支持体に薬品によって定着される「テクノロジー」には不思議なものが残る。残るという不思議さ。

 

・そして写真は現実がなければ存在しない。ゆえに現実を唯一証明する。写真は特定の事物、対象、出来事の証言なのではなく、現実それ自体の証明であるということ。現実を証明するテクノロジーが(少なくとも地球の)歴史/時間のある任意の点で生み出されてしまったということ。ボードリヤールが写真を通じて考えたのはそうした事柄であるし、ボードリヤール自身が写真を撮影することを通じて、そうした「現実と証明」を実現する領域に入り込んでしまったということが面白い。そうなると普通に「スペクタクル」とは言ってられなくなる。あるいはデジタルによる「ヴァーチャル」は別の問題であり、存在(する物)と写真の像だけが、そしてその関係だけが問題となるだろう。そこまでは考えられるのだけれども。

 

・現実のために中断。