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  映像研究

住所、住宅

 
・そういえば2013年の3月に今の住所に引っ越してきた時は、あらゆる自分のプロフィールが一度に書き換えられるような経験だった。東京都八王子市から東京都稲城市へ。単身から家族へ。2DKの平屋から知人のかたがセルフビルドで建築した間取り計測不能の家へ。自転車を購入した。家具が不要になった(家中が収納だから)。そしてその家は遠くない将来立ち退きが約束されていたのだから、それはある意味では「わたしたちに許された特別な時間」と呼ぶのがぴったりするような生活だった。「住所」と「住宅」と「生活」についての備忘録。「わたしたちに許された特別な時間」には必ずいつか終わりが来るのか。あるいは全ての時間にはいつか終わりが来るのか。引っ越しをするたびに自分自身が更新される。それはだから、引っ越し自体が特別な儀式のようなでもあるのだし、言うなれば「ハレ」の日だ。10月14日に引っ越すことになりました。


・「遠くない将来」は来る。家の前の雑木林が伐採されることもかなり前に決まっていたのだから春からはその日が来ることをひたすら恐れながら生活をしていた。ある日突然家に帰ったら家の前の様子がすっかり変わっている…そんな光景、状況を想像しつつ、その想像を振り払おうとしつつ、夏の時間を過ごした。「雑木林には鷹が住んでいるらしいのでその鷹が子どもを育て終わってから雑木林を伐採します」と言われて、そうですか、鷹の成長のことまで考えているのですね、面白いですね、と思いつつ、しかしその鷹はいつからその雑木林を住まいとしていたのだろうか。帰り道で狸とすれ違う。その狸もまた近隣の雑木林を住まいとしていたに違いなかった。住まいが変わるのは自分たちだけではなかった。風景が大きく変わるならば、その場所に、その土地に住んでいたものどもは移動する。当然だが、自分が今住んでいる家が建った時にもそのようなことはあったのだろうし、そもそも家の前が舗装されたのはいつのことなのだろう。そのようにして絶えず土地は(自分も含めた)人間にとって有益であるように変化させられていきたのだと思うのだけれども。


・「くうねるところにすむところ」について考えることは果てしなく面白い。言葉を組み合わせて価値を作り上げてそれを資本に展開するような事柄とは全然違った種類の果てしないダイナミズムが在る。引っ越しをするたびにそういうダイナミズムと、どんな住宅でもその少し下の方を想像してみたら土地が、土が在るのだということを、思う。思い出す。そして地中以外にも見えないものを思うことができる。それは例えば多木浩二の家について書かれたテキストを読みながら、家を、空間を、テキストとして捉え直すこととも通じる。あるいは空間を読むことと写真との接続について(当てずっぽう)。


・ここまで書いて業務の時間。