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  映像研究

非日常

・数日の空白を埋めるように書いても良い。数日の混乱と呆然につり合う言葉を書くことは難しいけれども、書くこともまた一種のセルフケアになるかもしれない。

 

・大きな出来事が起こると、過去の記憶(自分が生きていた時代に自分が経験した出来事の記憶も、自分が経験していない歴史に学んだ出来事も)が呼び起こされ、同時に、未来の不安も膨らみ続ける。それは未だ知らない未来であるから。想像してしまう。そして同時に、現在は、過去とも未来とも切り離されたように思える。現在の一点に向けて、思考も、想像も、情報も押し寄せてくるように感じられるのだろうか。まずはそれらに押しつぶされないように。身を守る。

 

・どなたかがどこかのタイムラインに書かれていたことで「なるほど」と思ったことは、「遠い場所で起こっていることを(まずは)『遠い場所で起こっている』と認識することの大切さ」ということだった。人間の想像は、そして人間が生み出した技術は、空間や時間を超えて、「共有すること」へ向かう。「共感」にも通じる。その能力は重要であるけれども、その能力を本当に必要な時に使うためにこそ、すり減らしてしまわないように、と伝えているのだと自分は解釈した。

 

・「想像」も「共感」も人間のうちにあって、無限かもしれない。しかし、人間であるからこそ波もある。その波と付き合いながら思考すること。

 

・かつて全然違う文脈だけれども、「日常」という言葉を、あるいは「日常/非日常」という概念を一度疑ってみた方が良いのではないかと、自分に向けて語ってくれた人がいた。その問いは今でも自分が何かを考える底に敷かれているかもしれない。そのことを思い出しながら、同時に、「今は非日常である」という意識が、自分のうちで確かにある。数日の間に、確かにあることを強く感じている。「有事」と同じ意味で捉えているのだろうか。「平時」ではない、ということが「日常」ではない、という意識に繋がる。

 

・そしてそう感じ、考えながら、つまりいまが「日常」ではないかもしれないと思いながら、しかし「生活」はあること。文字通りの「生きて活動すること」あるいは「生きるために活動すること」は続く。ある意味でこれまでと変わらずに、あるいは変わり続けながら、あるということ。そのことへの驚きもある。どうして自分の「生活」を続けるのか。続けることができるのか。

 

・今日からしばらくは自分の書く作業を続けることも記しておく。いま、書くことは、自分の「生活」のうちにある。だから、迷いなく書かなければならない。あるいは迷いつつ、躊躇い疾しさを浮かばせつつ、書くことを続ける。これは自分に向けて。

 

・願いを言葉にして、その言葉を記しておくことも、「何のためか」「誰のためか」ということに向かう前に、自分を保つことにとって必要。停戦を。終戦を。戦争に反対する気持ちが、あらゆる暴力を否定することでもあるように。その一点において、生きているもの同士が願いを共有できるように。

 

・数日の生活の記録を、出来事を書いておくつもりが、気づけば、生活しながら考えていた、思考自体や思いを書いていた。それらをひとつの流れとして感じている。