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  映像研究

止まり


・移動と移動の間に止まる。201810181353。職場の近くのエクセルシオールにて。少し睡眠不足で街を歩いていると、周囲と距離を感じるような気持ちになる。池袋の古本屋、夏目書房が閉店するとのことで、大学図書館の用事の道すがら立ち寄る。一本裏手の古本屋も約一年前に店を閉めていた。当たり前に思っていた場所は突然なくなる。突然、というのも自分の感覚に過ぎず、それぞれの理由で、終わる。自分でさえ、古本屋をAmazonのバックヤードのような場所と全く考えていないと言えば嘘になる。それは仕方のないことなのだけれども。


・オリンピック、という言葉を耳にすることが増えた。やらなくて良い、やらない方が良い、という気持ちがある一方で、その勢いにのまれてしまいそうになる瞬間がある。決定するまでオリンピックに否定的だったのは、その後に戦争をすることが思い浮かんでしまうからで、それは妄想の域を出ない。単純すぎるのだろう。しかし今こうしてオリンピックの雰囲気が作り出されていくなかで、オリンピックの後に戦争があり得るのではなく、オリンピックも戦争の一部なのだと、そう考えている、これも妄想の域を出ないのだろうか。


・そういう言葉を自分の中で何度も反芻しながら、では、何ならば、確かに在るべきと言えるのかと問う。物やイメージを思い描きながら、これは在るべきだと、これは在るべきではないと、指を指して歩き回ることもできるだろう。しかし、その時に、自分の判断は、非常に固定化された、保守化とも言えるような、権威主義的な、判断になっているのではないか。現状維持、生活保守、既得権。「許された…」という形容詞が、もう許されないように思うことは、のまれているということのサインなのか。それとも。


・清野賀子が書いた文章の「通路」の意味を考えている。あの文章が「通路を見出し続けることが大切」と言っているのではなく「通路を見出すことは不可能だ」と言っているのだとすれば。それは見ずにいられるならば、見ない方が良いような場所なのだろうか。しかし詩はどのように書かれれば良いのか。あるいは写真はどうやって撮ればいいのか。その地点に行かなければ書けない、撮れないなどということはなく、勝手に書く、勝手に撮るということなのだろうか。参考にしつつ、勝手にやる、ということが大切なのだろうと思う。何度も似たようなことを考えては中断している。