&

  映像研究

「写真のなかに特別な、何を求めていたかということについて」

 
・写真を撮るということ、そして写真を見るということについて、何度でも同じようなことを考える。その都度考えは変化するあるいは更新される。目の前の光景をカメラという機械で記録するということには、どのような意味があるのか。そのことからたびたび「機械の視覚」ということについて考え、そしてそれが発明された時代について考えを巡らせ、さらにそれとともに変化してきた/変化し続ける社会について、そして現在と未来の環境について考えることになる。この間友達と話していてふと考えたことは、例えばある状況でその場に集まった人たちに「じゃあ写真を撮ろうか」と言ってカメラを向けるとそこにいた人たちが一列に並ぶ、そのようないわゆる「記念写真」の撮影は、あくまでも限られた時代の、限られた写真の撮り方/撮られ方なのではなかったか。写真は、カメラは、今や歴然とコンピュータ・ネットワークと結びついている。記録の方法がフィルムか否かということはもちろんそれ自体大きな問題であるにせよ(そしてそれ自体大きな問題なのであるからまた別にじっくり考えてみるにしろ)、さらに考えてみるべきは、記録が非物質的になることで、即時的な共有を可能にしたことであるのだろう。写真を撮る。写真は印刷される。印刷が大量であるならばそれは無限であるように思えるけれども、ネットワークにアップロードされることは、それとはまた違った事柄であるように思う。それは個人によるネットワーク利用が一般的になって20年が経って、つまり現在では当たり前のことであるのだけれども、しかしそのことについてしっかりと考えてみることなくしては、何事も、何事もというのは例えば「生きているということをどうすれば深く味わうことができるのか」ということについてさえも、考えることができない。あるいは「この社会のなかで少しでもよりよく生きるためにはどうしたら良いか」というようなこともまた、考えることができないかもしれない。


・例えばいま80歳の人は、昭和の初めに生まれて、テレビがまだ一般的でないような時代にあって育ちながら、戦争を経験して、高度経済成長というような時代があったりしつつ、急速なメディア/そしてマス・メディアの発達、普及、拡大のなかで生活をして、例えば現在ではPCやスマートフォンタブレットを使っていたりする、そういうことに驚くという話はよくあるけれども、一方でもしもそれと同じ程度の劇的な変化が例えばこの先50年に起きようものならば、自分は全くその変化(の速度)についていける気がしないし何よりもその変化(の速度)恐ろしくて仕方がない、ということも考えなくもない。予感することは「ある場所にひとつの物体が存在していること」がどうにも確かなことではなくなるのではないかということで、そうなると「ある時間/空間に私が存在していること」も同様に相対化されるかもしれない。存在は複製される。存在はデータ化される。存在は共有される、と言ってみて、存在はつまり「程度の問題」になるのだろうか。Skypeとかそういうテレビ電話(映像メディア)的なことよりももっと圧倒的に劇的なテクノロジーで「SFのような世界」は実現されるのか。いや、そうでもないのか。そしてそのとき「表現」とか「コミュニケーション」「芸術」という語は何を指すのか。まだ全然読めていないレジス・ドブレという人の『イメージの生と死』という本では「イメージ」というものを、古代から中世までの「偶像」、近代の「芸術」、20世紀後半以降の「ビジュアル」に三分割していた。それはそれぞれ「文字/印刷/オーディオビジュアル」に対応していると書かれている。そこで「ビジュアル」と示されるものは何か。


・「見ること」が特別なことであるかどうか。視覚を持たない人もいるだろう。自分はいわば偶然にも「見ること」が自分の身体とともにあり、他の人もそうしているのだろう、そのことを自分の生活に使っている。あるいは時々は「使っている」と意識することなく、ただ「見ている」。その「見ること」は自分にとって様々な快楽と結びついているかもしれない。人間や、動物や、植物や、鉱物や、食べるものや、着るものや、製品や、何かを見る。そしてそのこととともに/また別のこととして「映像イメージを見る」という経験がある。写真を見る。映像を見る。あるいはまた少し違う経験としての「文字を読む」こともあるかもしれない。さらにはテキスタイルの図像を見る/読む、漫画を見る/読む、ウェブページを見る/読む…、様々な「見ること」がある。