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  映像研究

ここも中央図書館

・201911191045。いつもの同じ中央図書館にて作業をはじめようとする。昨日も図書館には辿り着いていたのだが業務連絡にまつわる諸々で時間も精神も持っていかれてしまって作業どころか日記すら書くことができなかった。不条理なことがある。あるいはテキストだけでコミュニケーションを取ることの根本的な不可能。「文章を書く」という行為から退けることができない内省が他者が書いたとされる言葉に貼り付き何事かを迫るように思える。そしてそのことを知りながら/知っているからこそ、何かの情念が零れた言葉を晒すことに無自覚あるいは不感症になる。しかしそれはすべて幻想かもしれないし、少なくとも創造の障害であると考えた。あるいは深く自分の思考へ降りていくための障害。可能な限りクリアにカットして進む。とはいえそのことで作業が進まなかったことについては素直に反省。それで反省して、反省しつつ早めに就寝して起床して今。作業を再開する前に記しておく。

 

・図書館で作業する前にちょうど先週の今日に撮影した空き地へ行ってみて10数枚の写真を撮る。空き地とは何か。当座用途を持たない場所に特有の気配のようなものがある。そうした場所には惹かれるものがあり思わず写真を撮ってしまう。機能のある/なしという意味で捉えるのではなく、つまり空き地をコレクションするのではなく、その場所をよく見ることから考えを展開させていくことは面白いことなのではないかと思った。地面の土の感じや伸びたままの植物の魅力。人工/自然という区分ではない視線を持つことは可能かと考えながら、目の前の空き地をよく見ようとする。そしてやはり三脚を立てて、よく見て、露出を何度も確認して、丁寧にシャッターを押すことが大切だという、これは結論。その結果パンフォーカスのイメージが獲得される。GW690は(ペンタックス67もそうだけれども)ついスナップが撮れるように錯覚してしまうカメラだが、基本的には手で持って構えて撮ることのできるイメージはごく限られている。そのことを先週の撮影と今日の撮影で完全に理解した。今日の撮影は終了。たぶん今年の撮影はこれで最後かもしれない。

 

・友人がTwitterに「年末の感じがしてきた」というような意味のことを書いていて、さすがにそれは先取りすぎなのでは、と思ったが、気がつくと自分の周囲にもうっすらと年末の気配が漂ってきた。慌ただしく、押し出されるような、そして何かが許されるような感覚がある。酒と湯気と電灯の光景。そういう場所と時間が気持ちを緩めるだろう。忘年、と言ってみて、かつてはその忘年会という行事がとても大切だった。そのことを思い出している。あるいは正月について。社会全体が必死で/不可避にある雰囲気を作り出しているのが正月なのだとして、2020年がこの国の社会にとって特別な年であるというのならば、次の正月は、その雰囲気がより濃厚に漂うのだろうか。その雰囲気から自分の精神や身体も影響を受ける。

 

・気がつけば夏から秋にかけて「狂ったように」の一歩手前程度には洋服を買っている。しかもすべて古着ではない。理由は複数ありかなり明確である。収入の(微)増。書籍購入額の減少。新しい年代に突入して「全とっかえ」したいと思っていること。これまで着ていた洋服が全然自分のものではないような気がすること。しかしそうした内的(?)な動機とは別に、社会のバブルが自分の精神に染み通っているのではと考えたりもする。景気は空気のようなもの。それは写真に映るのだろうかとも考える。そういえばかつて自分が持っている洋服をすべて書き出してみる日記を書いていたことを思い出して、いまそれを読み返したならば、その多くが既に手元に無いことを知る。トレジャー・ファクトリー的な「ここではないどこか」へ行ってしまった。「一つのものを長く使いたい」という気持ちすらもトレンドでしかないのか?という問いは今でも持っている。いつかまた書き出してみようと思う。中断。

 

・昼食に今日は図書館の喫茶コーナーでビーフカレーを食べて。考えたことの続きを少しだけ書いておく。

 

・それが労働に関わることでないにしろ、たとえば自発的な創造行為であるとか文化に関わる事柄であれ、人間と言葉の間で思考を続ける人にとって、つまり人間の生活の「外」のような意識をあまり持たない人にとって、暮らしていることそれ自体が困難の連続であるだろうと思う。自分はひそかにずっと思っているのは山のことで、つまり土や石のことを意識の片隅に置いているような感じがある。かつて高尾に住んでいたときに「裾野」という言葉を、自分の周囲の雰囲気に感じて以来、なにか場所に対する感覚が(少しずつではあるけれども)変わったように思う。今朝写真を撮っていてその感覚を思い出した。「あらゆる場所が裾野であり得る」と言葉にすれば安易に思えるが、地図を見て「意外と緑が多い」と思ったときのように、自分は土の上で生活をしていて、それは簡単に覆るようなことではないのだと、ふと思った。そうした感じを持っている限りにおいて、人間と言葉の間で起こっている出来事はそれほど大きな事象ではない。そのようにも思う。

 

・あるいは、そうした実感を切り離すためでなく留めるための、言葉とはどのようなものだろうかと考えている。生命を力づけるような、言葉とはどのようなものだろうかと考えている。たとえば「はじまり」という言葉に特別なアクセントを置くような、それこそ言葉(構成されたものであれふいに投げられたものであれ)をいつでも気に留めてきた。一方でその「はじまり」も、実感のないスローガンのような言葉に感じられてしまえば、それを読むことはできていない。言葉はいろいろな要因から「読めるようになったり/読めなくなったり」するものなのだとと思う。かつて自分が生活していて「はじまり」という言葉を「読めた」と感じた、その言葉が持つ意味をはっきりと感じたのは、木皿泉が脚本を書いた『すいか』のいくつかの場面の台詞からだった。何度でもはじめられるということ。そのようなことを考えたときに媒体の枠組みで考えていた問題が、少しその枠組みをはみ出していくような予感がしている。あくまでも予感。でも予感は大切。

 

・生活と繋がりながらも抽象的な思考を言葉やイメージのかたちにすること。かたちになった言葉は他者と共有することは難しいが、イメージ(映像、音声、その他)は他者と共有できるのだし、そもそも音楽をすること自体が他者との関係のなかでありえるものだと高橋悠治という人の話を聞いたり読んだりしていて思った。音楽を入り口にして音の問題を考えてみるように、写真を入り口にして、見ることと存在について考えはじめることも、できるはずだった。「一人だけの音楽はない」というテーゼをサンプルにして「一人だけの写真はあり得るか」と問うたときに、媒体の枠組みで考える限りでは、それはいつでもつねにあり得るだろうし現にあり得ているという解しか出ない。しかしそうではなく、と考えてみること。無理やりに自分の考えを先に進めるために、しゃがみこんだ体がバランスを崩して転ぶように、罠を仕掛ける。「一人だけの写真などない」と言ってみて、その罠に気を取られてしゃがみこむ。

 

・「私とあなたは別のものを見ています」ときっぱりとした態度で言うとき/考えるとき、知覚に一切の疑いはなく、個体の区別は明確で、空間は座標のように認識されている。視点=visionという語が個体を特別なものとして捉えさせるのだろうし、構図というような思考と結びつき、それが創造行為であれば作者性というような意識を発生する要素ともなる。だからその回路ではなく、媒体の問題でもなく、見る行為にまで戻ってみて、可能な限りそのはじまりから考えてみようとする。カメラを持つことはそのような「考えてみようとすること」をおそらく助ける。しかしカメラを持ってしても生活の圏内では難しい。視覚は生活に最適化されているのだし、その視覚の元では「事物」も「風景」も、その生活を彩るためのフォトジェクニックな角度でしか姿を現さないだろうから(ボードリヤールとの接点)。とここまで考えてみて、写真もカメラも「あらかじめ撮影する対象があって機能する道具」というようなものではないのではないか、という疑問が浮かぶ。簡単な言葉で言えば「見る行為を深化させようとすること」のために撮影行為があるだけなのかと考える。それもひとつの解であるかもしれない。

 

・だから行ったことのなかった場所に身を置くことは、見る行為の「はじまり」を感じるための練習であり得る。逆に毎日見ているものや場所であっても「はじめて見たような眼差しを感じる写真」というものがあり得るのだろうか。装われたものではなく。難しいだろうか。しかし「そんなものはない」と一挙に切り捨てることはできない。ここまで考えてまた中断。