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  映像研究

ある時間

 
・ある時代の特徴、その時代に生きる人の特徴、考え方の特徴、生活の特徴を考えることは、どのくらい必要なことなのか。世代論と呼ばれることもあるだろう。類型化することには気をつけるべきだ。しかし条件に規定されるということがある。ある態度が革新的であるとか保守的であるとかあるいは反動的であるとか、そういうことも一概に言うことはできない。例えばなぜ10年前に自分は「20代のうちにやっておきたいこと」に「資本論を読む」を挙げたのか。トレンディだったのか。いくつかの条件が化学反応を起こして、新しいことを考えようとする。または実際に行動を起こす。生活を変える。2011年の3月がやはり特別だと思うのは、そういうこととは別に外側の環境が大きく変わって、多くの条件それ自体が変化したように思うからだ。そういえば3年以上が経っている。3年前の、つまり震災と原発の事故から3ヶ月経った頃の自分は、例えば柄谷行人という人の『世界史の構造』という本を読んでいた。デモにどういう意味があるのか。誰にプレゼンテーションする必要もないのかもしれないけれども、何よりも自分がそれを考えておきたかった。その後ネグリを読み返したり、ドゥルーズを読んでみようと思ったりした。


・あるミュージシャンが病気であることを発表して、そのミュージシャンが原子力発電に反対しているということから、実際には発言していない病気の治療の仕方についての報道がされる。その報道がソーシャル・メディアによって拡散する。そしてその報道の真意はわからないままに、色々な人が、色々なことをコメントするだろう。しかしそもそもそのような報道をしたくなるような意識が存在しているのだろう。「極端な『反原発』に対する冷めた意識」があるのかもしれない。冷静さを表明しておきたいのか。10年くらい前に出版された北田暁大という人の『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、安保の運動、あるいは世界的な「68年の運動」がどのようにしてそれ以降の「消費社会」に転じるかということについて書かれていて、そういう意味で大塚英志という人の『「彼女たち」の連合赤軍』とともに、自分が何事かを考えるきっかけになった本だけれども、そこに書かれている「アイロニー」は存在し続けているのだろう。そしてその大きな変化のなかにあって、小さな変化、あらゆるささやかなアクティヴィズムもまた、68年的な地点に始まり「抵抗としての無反省」あるいは端的に「無反省」への道を進むのか。過去のことを考えているかもしれない。


・それはこのところヴァルター・ベンヤミンの本を読んでいるからなのか。あるいは手に取る本それぞれが、それぞれ微妙なかたちでベンヤミンの「過去を見つめながら未来に向かうこと」に触れているからなのか。それは映像メディアについての本でもない。例えばそれは白井聡という人の『永続敗戦論』であり、本山美彦という人の『民営化される戦争』という本であり、図書館で借りた高橋悠治という人の『水牛楽団のできるまで』であった。それらの本を読みながら同時に野村修という人が書いた『ベンヤミンの生涯』や、村上隆夫という人が書いた『ベンヤミン』を読む。およそ100年前に生きた人の条件を想像する。